1頁目「日常から非日常」③



空はまだ明るい。一年でも数少ない過ごしやすい気候で、まだ帰宅するには惜しく、私はもうひとつのお気に入りの場所へ向かうことにした。
だがそこで、マスクがなくなりそうだと思い出した。

私にとってマスクは欠かせないものだ。そして厳しい校則の中でも許されている、いわば装飾品でもある。公立の生徒は、校則の範囲内でいかにオシャレができるかが重要だ。
いまではマスクも凝ったものが売っている。せっかく制服がかわいいのに、家族の用意した白のものだと味気なく感じるものだ。暁のようにパーカーを着るなどの大胆な着こなしは勇気がないが、マスク程度なら私でも拘れた。

方向転換して一度通りすぎたドラッグストアへ寄る。処方箋受付も行っている店舗で、入店すると共に清潔感ある匂いがした。
大型の店舗で、マスクは日常的な品となっただけ、品ぞろえも良い。私はマスクを吟味し始めた。

ふと、オレンジ色のマスクに目を引かれた。その色に既視感を覚えたが、そこで暁のパーカーを思い出した。
うちの制服は、黄色を刺し色で使用していることから、暁の着ているオレンジ色のパーカーがとても映える。彼の苗字である「暁」の空を表現したかのような温かみのある橙色で、彼の愛される人柄を一層明るく表している色が印象的だったのだ。

しばらく悩むが、私はそのマスクを手に取った。今日は偶然安売りのようで、購入制限三箱までとの記載がある。制限をかけられると上限まで買いたくなるものだ。高校生の少ないお小遣いではやりくりも必要だ。
三十枚入りを三箱。毎日使用するので、三カ月は持つだろう。私はそのままレジへ向かうと、店を出た。

目的地へ向かいながら、購入したマスクの入った袋に目をやる。今さらになって暁に真似したと思われないだろうかと気にかかった。だが、自意識過剰だと頭を振って打ち消す。それに明日からこのマスクを着用すると思うと、晴れがましい気持ちにもなった。

びゅうっと春一番が吹く。開けた視界に、私は大きく深呼吸した。

図書館から徒歩二十分ほどにある藍田川。川幅がとても広く、周囲も山に囲まれ、のどかな空気が漂っている。

ベンチで川を眺める人、上の空の人、犬の散歩をする人、ランニングする人、素振りをする人、楽器の練習をする人。これから暖かくなると、バーベキューや花火をしたり、体育祭の練習をしたりする人も見られる。様々な人がいるが、広い空間なので騒がしいとは思わず、孤独を感じることもない。ここも私のお気に入りの場所だった。

私は土手から河川敷に下りると、マスクを外す。基本的に学校では、昼食時以外はマスクを外さないため、解放感に満ちあふれた。いまは花粉も落ちつき、風が少し肌寒い程度で心地いい。

目を閉じて大きく伸びをする。昨夜に雨が降った影響から、土と混じった雨水や、青臭い草の香りが立つ。川のせせらぎに耳を澄ますと、しだいに周囲の雑音が消え、私を無心にさせた。

私は、ベンチに腰を下ろすと、図書館で借りた本一冊を手に取った。なんとなく借りた旅行雑誌だ。「京都」とでかでかと書かれた表紙を見て苦笑した。

「ひとり行動に、なるかもしれないのにね……」

やる気のない担任のことだ。自由行動の班はおそらく自分たちで決める。まだクラス内で気軽に話せる友人のいない私は、きっと人数の埋まらなかった班に入ることになる。数合わせで入った私は、身の置き場がないだろう。鮮明に見える未来で、考えただけでも空恐ろしい。それなのに、どこか心が浮き立っている自分もいるようだ。

雑誌をパラパラとめくる。着物レンタルページの「学生プラン」の言葉が目に留まり、茫然と眺める。
空を見上げ、着物で京都を観光する自分を思い描く。もはや妄想だけで満足できるコスパの良い人間になってしまったかもしれない。そんな現実では敵わない妄想を描きながら雑誌で予習した。

気づけば空が朱色に染まっていた。日の傾いた西の空は、オレンジ色に染まっている。暖かな夕日が、今日の終了を告げていた。
スマホで時間を確認すると、十七時半を回っていた。四月下旬になり、日も長くなりつつあるが、あまり遅くまではここにいられない。

そろそろ帰らなきゃ。

雑誌をカバンに入れようと横を向いたとき、人の気配を感じた。恐る恐る振り返ると、土手のほうからひとりの少年が私を見ていた。

天使かと、目を疑った。

土手から河川敷に座る私を見下ろす少年。クセのない細くて柔らかい髪に、儚げで哀愁を帯びた澄んだ瞳。陶器のように白く整った顔立ちだ。神秘的な佇まいで、背に広がる空の雲が、まるで天使の羽のように見えた。
遅れて、私と同じ高校の制服を着ていると気づく。こんなにも「公立」という言葉が似合わない生徒、うちの学校にいたのか。

はっと我に返る。いまはマスクをつけておらず、口を開けて間抜けな顔で見惚れていたことに気恥ずかしくなり、慌てて顔を逸らした。

露骨すぎる行動に、気を悪くさせていないか、変な人だと思われていないか不安が浮かぶ。なにか弁解したほうがいいのかもしれないが、残念ながらとっさに言葉が出るほど器用な人間ではなかった。

いまだ視線を感じる。決まりが悪くなるが、気づかないふりして帰宅準備を進めた。

「京都に行くの?」

沈黙を破ったのは、少年だった。私は彼に顔を向ける。
少年は、柔和な目つきで私を見ると、僅かに口角をあげた。容姿に似つかわしくないほどに大人びた笑みで、心臓がドキリと跳ねた。

遅れて少年が言った言葉を思い出す。それと同時に、手に持つ雑誌に目がいった。恐らくこの雑誌を見て言ったのだろう。
同じ学校ならば修学旅行で行くと知っている可能性もある。雑談のつもりなのか、予習をしてると思われたのか、彼の表情からは意図が掴めない。

思考していると、少年がこちらまで歩く。サクッサクッと芝生を踏み鳴らす音までもが心地いい。彼の動きすべてに無駄がないように感じた。

「行くのは市内かな、それとも宇治のほうかな。京都でも場所によってはかなり差があるからね。でも、初めてなら神社寺巡りかな。楽しみだね」

少年は微笑む。楽しみではあるものの、それと同じくらい一人行動になる不安がある、だなんて言えるわけもない。

だが少年はこちらに顔を向けると、「そうでもなさそうだね」と少し眉を下げた。

「純粋に楽しみにしていればいいのに。きっとキミは、自分でも気づかないほどにワクワクしてるんだよ」

私は感情が顔に出づらいはずだが、不安が滲んでいたのだろうか。それなのに、旅行雑誌を手にしていることから、浮かれていると伝わったのだろう。私の心を見透かされているかのような発言で、顔が熱くなる。

「あ、あなたは……」

やっと溢れた言葉が、それだった。私は想像以上に話すことに慣れていないようだ。

「僕は、惟月(イツキ)」

惟月と名乗った少年はそう言うと、口元に指をあてる。

「大丈夫、きっと楽しめるはず。僕が保証するよ」

そう言うと、私に手を掲げた。

「キミに、一言の勇気をあげる」

そう言うと、チカッと光が放たれた。カメラのフラッシュのような不意打ちの眩しさに、反射的に目を瞑る。

数秒後、恐る恐る目を開けるが、惟月はいない。周囲を見回すも、影すら感じられなかった。
私は、呆気にとられる。

「な、なんだったんだろう……」

かぁかぁとカラスの鳴き声で我に返る。視界が暗くなることに気づき、慌てて帰路についた。

 

***