「え、俺が?」
ワンテンポ遅れて、暁は面食らったように困惑した。その反応から、いまの幻聴が私の口から飛び出たものだとやっと気づいた。
―――――かっこいいね。
脳内で思った言葉が、口に出ていたのだろうか?
「ごっ ごめんなさい……! 私、今変なこと言ったかも……?」
「何で疑問形? というかウソなの?」
暁は、わざとらしく頬を膨らませる。その反応から「いや、違わないんだけど……」としどろもどろに訂正する。
マスクの上から、手で口を覆うしぐさをする。まるで頭にメガネをのせたことに気づかずにメガネを探すような滑稽さだ。自分でも何をしてるのかわからない。
こんなこと、ありえない。私は話す時が一番慎重になる。言葉として口から出す前に脳内で思考し、選別し、反芻し、決断する。だから無意識に何かを発言してしまうなんて、普通はありえないのだ。
それなのに、何故?
初対面の人間から気持ち悪いことを言われたにも関わらず、目前の暁は、気を悪くした様子はない。むしろ笑ってくれている。私の失言を流してくれているようで、少しだけ気が和らいだ。
「璃空~、そこオレの席」
前の席の人物が登校したようで、暁に声をかける。
「あ、悪い悪い」
じゃ、と私に軽く手を掲げて席を立つ。それと同時に、ベルが鳴った。私は、頬に手を当てる。
顔から火が出そうだった。耳の中で心臓の音がバクバクと鳴っている。マスクを着用していたので、赤さは暁にバレていないと信じたかった。失言するほど浮かれていたのだろうか。
パーカーと同じ色のマスク、彼の好きな小説、そしていきなりの爆弾発言、絶対気持ち悪い人間だと思われたに違いない。ストーカーと思われていたら最悪だ。
皆が授業の準備をする中、私は頭を抱えて縮こまっていた。
今日は何かがおかしい。異変はそれだけではなかった。
***
授業開始のベルとともに、教師が教室内に入る。今からは現代文だった。
頭をかきながら礼をする教師とは対照的に、私は教科書を開いて必死に脳内で朗読していた。
この先生は、日にちの番号の生徒から席順に回答権を回すと決まっていた。私は名簿順で最後だが、三十人クラスの四月下旬、番号の生徒は私と同列で今日は必ず私に回ってくる。
生徒の為を思ってなのか面倒くさいのかはわからないが、現代文では大抵音読させられる。音読なんて小学校ではあるまいしと思うも、口には出さない。いや、出せない。読めない漢字があると、そこでつまり、教室がシンと静まりかえる。そして「はやくしろよ」という冷たい視線が刺さる。ここまでくると、あとは先生の助け舟待ちになる。経験済みだ。
私は本を読む方だと思っているので、頭では読めている。だが音読となると緊張が勝り、頭が真っ白になり、毎回つまってしまうのだ。声が裏返ったりしないか、読めない漢字がないか、発音がおかしくないか、そんなことばかり考えてしまう。だから文学は好きなのに、音読のある国語の授業が昔から苦手だった。数字を答えるだけの数学の方がまだマシだ。
大げさに感じられるかもしれないが、現代文で回答権が回る日は、本気で学校を休みたかった。だが、学校をサボるなんてできない。青春漫画では学校を抜け出すなんてこともあるが、現実は一日休んだだけで遅れをとるものだ。そもそも休んで両親を不安にさせたくもない。だから胃を痛めて時間を過ごすしかなかった。
案の定、今日も音読があった。日付番号の生徒が当てられ、音読を始めた。
あまりにもスラスラ読まれることに、思わず脳内練習が止まり聞き入ってしまった。当てられた男子生徒からは、緊張が一切感じられない。そういえば彼は生徒会に入っていると聞き、頭も良さそうに感じた。失礼ながらも、クラス内では目立たない同士だと思っていただけに、勝手に裏切られたような気分になった。
次へ回答権が移り、暁たちとよく話すクラス内でも目立つ女子に回る。活発な声がクラス内に響くが、数秒後には前座席の優等生に読みを聞き、しつこがられて挙げ句の果てに「先生〜読めません」と開き直った。周囲は笑うものもいるが、潔く言える彼女はかっこいいとすら思えた。これだけ素直になれたらどれほど楽なのだろうか。
そんなことを考えていると、次第に順番が近くなる。前の席の生徒が読み終え、私に音読権が移る。私は、大きく息を吸うと、頭の中で反芻した言葉をそのまま口に出した。
二年生になって初めて音読した。その為大抵の人たちは聞き流すが、一年生から私を知っている生徒と先生は、驚いたように私を見る。
「よ、よし、そこまで」
先生は、面食らったように切り上げると、次の人物へ音読権を移す。名簿最後である私の次は名簿最初の暁となるが、どうやら彼は居眠りしていたようで、先生に叩き起こされていた。周囲のものも彼を揶揄い、すぐに暁へと注目が移った。
私自身も、何が起こったか理解できていなかった。
一度もつまらずに朗読を終えたのは初めてだった。あまりにもよどみなく発言したことに、自分が一番驚いていた。
脳内でした練習の成果だろうか。だが、普段とは違い、朗読中は思考が冷静になれた。通常ではありえないことだ。だからこそ、私の実力とは思えず、まるで誰かが乗り移ったかのような違和感を感じていた。
無事に乗り越えたはずなのに、私の脳内は疑問で満たされていた。
帰宅し、自室で復習を行う夜時間。来週末からゴールデンウィークに入り、休み明けにはテストがある。そのため、テスト前の恒例行事であるノート点検のために、板書を整理していた。
ノート点検があるのは、現代文と古文。板書は最低限、先生の発言などをわかりやすくまとめていると加点になる。何かをまとめるのが好きな私にとっては、ノート点検は成績を稼ぐボーナスステージだった。言い換えれば、音読で失うポイントを挽回する復活ステージとも呼ぶ。
だが、今日の現代文での出来事を思い出しては、手が止まる。
正直、今日の授業内容は、まったくと言っていいほど頭に残っていない。その為、加点となる書きこみができなかった。
今日一日のことを思い出す。発言しようと思考を巡らせた瞬間、歯止めがきかないようにスルスルと言葉が口から溢れた。今までの私ではありえないことだ。信じられないが、本当のことだった。
どうしてこんなことになったのだろうか。
異変を感じたのは、今朝の登校時。バイクの危険運転に腹を立てた感情が口から漏れていた。あまり感情が表に出ないことから、自分の発言とは思えず違和感があった。だが、ここはまだひとり言だと済ませられる。
問題は、暁との一件だ。私は、昨日なんとなく借りた小説が、暁が好きな作品だったことで、彼に話しかけられることになった。本は昨日、図書館で偶然目に留まったもので、彼が好きだとは知らなかった。
ないものをもつ暁は、私の憧れでもある。そんな彼との初会話で、緊張していたはずだ。普段よりも口が固くなっていた。
それにも関わらず、私は思ったことを口に出していた。それも初対面で言うには、あまりにも恥ずかしい言葉だ。
机に突っ伏す。思い出しただけで消え入りたくなった。
そこで、ふと引っかかることがあった。自分でも驚くほどに冷静に頭が回る。
異変が起こったのは今日だけではなかった。昨日出会った、惟月のことを思い出したのだ。