天を覆う木々から漏れる日差しが心地いい。
残暑も終えて九月中旬に突入したことで、鬱陶しい湿度も感じなければ、凍てつく冷気も感じない。秋の来訪を待機中、といったところだ。
すでに履修済みの授業を受けるよりかは、年に数日しか訪れない貴重な気候を味わう方が良いに決まってる。
人の気配がするな、そう感じて目を覚ますと、目前に見慣れた顔があった。
「玲央、やっと起きた!」
西園寺 寧々(サイオンジ ネネ)は、アッシュ色のゆるく巻かれた髪を揺らし、甲高い声で口を開く。寝起きには少々、耳障りな声だ。
「受験シーズン真っ只中なのにさ。寝てばっかりじゃん」
「すでに、進路が決まってる余裕がある証拠だよ」
「あ、出た嫌味。玲央の場合、本当に余裕だからムカつく」
寧々は頬を膨らませてむくれる。この場で受験勉強をしていたのか、手にはプリントを所持している。
この空間は、本校舎から少し離れた庭園の片隅。人の話し声や雑音が届かず、心置きなく時間を過ごせる。
学内で数少ない一人になれる場所だったが、こいつにはすぐにバレてしまうものだ。
身体を起こす為に床に手をつく。何やら右手に違和感を感じ、顔を向けた瞬間、はたと目を丸くする。
右手につけていたはずの品が見当たらなかった。
「……あれ?」
俺の反応に気づいた寧々は、「あっ、もしかして、これかな」と眉をひそめて口を開く。
振り向くと、彼女の手には、赤と黒の糸で編まれたミサンガが持たれていた。
「手にアクセサリーはつけないって言ってたでしょ。それに、明らかに手作りのものじゃん。玲央、優しいから相手に気を遣ったんだと思ってさ、外しておいてあげたよ」
寧々は、意気揚々と顔を寄せる。
「それにしても、こんな地味なものを贈るなんて、よくやるよね」
玲央に似合わないよ、と寧々は得意げに指を鳴らす。
俺は不快な顔を彼女に向ける。
「…………返せ」
「えっ」
予想外の反応だったのか、寧々は少し強張った顔になる。
「返して」
何故かわからないが、感情が沸々と湧き上がり、怒りで狂いそうになる。
「玲央、どうしたの…………?」
寧々は怪訝な顔で俺を見る。
普段の俺は、理由が明確でないまま感情的になることはない。こいつの突飛な行動は今に始まったことではないが、全て俺への好意から動いているものだと理解はあるからだ。
だが、何故なのか。今はそんな余裕がなかった。
「これ明らかに女の子の手作りのものだよね!?それなのに大事なものだったの?ちょっと嫉妬するんですけど」
寧々は少し怒りながら迫る。彼女が怒る理由は理解できるから、反論はできない。
黙ったままの俺に対し、寧々の表情は怒りから困惑へと変化する。
「玲央、もしかして好きな子がいるの……?そんなわけないよね……?私たちは、学内で最も釣り合ってるカップルなんだからさ。アクセサリーつけてくれるなら、私がもっと良いもの買ってあげるよ……?」
寧々は、俺の表情を窺うように尋ねる。
俺はしばらく黙り込んだ後、「寧々」と口を開く。
「な、何……」
寧々は引き攣った顔で俺を見る。
俺は深い溜息を吐いて、彼女に向き直る。
「ごめん。別れてほしい」
part4:a tempo
自宅とは離れた、防音の効いた練習部屋。集中してヴァイオリンの練習をする為だけに準備した建物だ。
とはいえ、仕切りの奥には楽曲制作に必要な機材は勿論、ソファもあれば冷蔵庫も備わり、この部屋だけで生活することも可能となっている。
「お兄ちゃん。大丈夫?」
妹の安奈が、ドアから不安気に顔を覗かせる。
今年中学生になった彼女は、幼少期から演劇に励み、隣には彼女の練習部屋が備わっている。そして唯一、この部屋への介入を許可している人物でもある。
「あぁ、ごめんね。心配かけて」
俺は安心させるように軽く笑って対応する。
安奈は俺に駆け寄り、勢いよく抱きつく。俺は彼女の小さな背中をさすって微笑む。
何故かわからないが、俺は夏休み前からの記憶が全く思い出せなかった。節々に消えているのではなく、二ヶ月ごっそり切り取られたような感覚になっていた。
周囲の反応を見る限り、夏休み行くはずだった海外の別荘にも、夏休み明けすぐの文化祭にも欠席していたようで、俺が何故、不参加だったかの明確な理由も、彼らには不明だと言う。
唯一の手がかりは、この「目が覚めたら一番に見ること」と大きく記載されたノート。
この中には、「七月十日~九月十日は、楽曲制作の為に地元を離れていた。テストはすでに受け終え、進路も固まっている為、多少の自由が許された」とあり、ご丁寧に「ここに記載されている内容は、もし何か問題があった時に利用できる口実や弁解のネタ」とまで説明されていたので、言葉通りに利用させてもらっていた。
記憶にはないが、このノート内の日付の記載されたページを撮影した写真がスマホ内に残っていた。写真の撮影された日と記載された日が同じであることから、『九月十日』に作成されたものだと判断できる。
それに、このノートの文字は、明らかに俺の字だ。俺がいたずらでこのような行為に出るわけがない。
このノートを作成するにあたった要因は全く掴めないものの、俺が俺自身に向けて作成したものだと信じる根拠は揃っていることから、今はこのノートだけが頼りになっていた。
「でも、この髪型、新鮮でいいね。なんかヤンチャな高校生って感じで」
安奈は、俺の髪をちょいちょいと弄りながら言う。
「安奈にそう言ってもらえるなら、しばらくはこの髪型でいようかな」俺は苦笑して答える。
この頭髪もそうだ。金髪に近いほどまで脱色された髪色にパーマ。今までこんな派手な髪色にしたことがなく、鏡を見た時には、しばらく本当に自分なのか信用ができなかった。
だが、これについてもノートに記載されていた。俺がここまで目立つ髪色になっていることが珍しいのか、家族や知人に怒られることはなく、むしろ興味深そうに俺を眺めてくる。普段とは違う外見なだけに、俺自身も爽快だなとすら思い始めていた。説明できないだけ、自棄になっていたのもある。
「いくら集中したいって言ってもさ、引きこもりは良くないよ」
「その言い方、やめてよ」俺は肩を竦める。
「でも、お兄ちゃんの曲好きだから楽しみ。完成したら一番に聴かせてね」
「もちろん」
じゃ、またね、と安奈は自分の練習部屋へと戻る。
俺はソファにうな垂れると、天を仰いだ。
少しずつ現状を受け入れつつあるものの、やはり腑に落ちない。
何故、いきなり寧々に別れを切り出したのか、何故、俺が行事に出席しない行為に走ったのか。
ノートの記載通り、テストは受け終え進路も固まっている為、特に成績評価に関わらないとはいえ、外見を変えてまで楽曲制作に取り組むなんて、理に適わないとは考えなくてもわかることだ。
思案に暮れたところで、胸に空洞ができているようで頭も回転しなかった。
机に置いたノートを手に取る。このノートの中には、困った時の口実のネタ以外に、素っ気なく『紫野学園高校』『城島』『桃山 明日香』という単語が羅列していた。
『紫野学園高校』は、理事長と面識があることから存在は知っている。彼は部活動に力を入れ、腕利きの指導者を登用する為に渡り歩いてたようで、その中で偶然知り合った。その甲斐あってか、偏差値は低いものの、部活動は全国レベルだ。
だが、高校はともかく、理事長にすらここ数年、連絡はしていない。
『城島』は、名前なのか地名なのかの判別がつかない。珍しい名前ではないものの知人に心当たりはなく、その地に訪れた記憶もない。ふと思ったのは、今読んでいる本に同名のキャラクターが登場していることくらいだ。
『桃山 明日香』に関しては、一切見当がつかない。検索したところで情報は出ないことから、どこかの企業の娘といった貴重な位置にいる存在でもないはずだ。
「桃山 明日香、ねぇ……」
付け加えられてる「万が一、この名前の子が俺の元に訪れたら、歓迎するように」の言葉からも、見逃すことはできなかった。
同じく、机に置かれたミサンガに目を落とす。寧々に勝手に外された時は、何故なのかわからないが、感情的になった。
寧々の言う通りに、俺は手にアクセサリーは基本つけない。右利きであるのだから、例えつけるとしても左手になるはず。
だが、俺は当然のように右手にミサンガがついていると認識していた。
これと何か、関係があるのだろうか。
堂々巡りだとはわかっているが、原因が掴めないだけ気分が悪い。
茫然と日々を過ごす中、何の偶然かおもしろいことが起きる。
***
ヴァイオリンの恩師から連絡が入り、近くのカフェで会合した。
彼は俺が幼少期に通っていた音楽教室の指導者で、現役の奏者でもある。指導や演奏の腕は業界でもトップクラス、最近は、ほぼ海外に滞在してると聞いていた為、突然連絡が来て目を丸くしたものだった。
来年で四十代を迎える彼だが、笑顔の絶えない童顔で背も低めの外見からも、年齢相応に見えないところは、今でも変わっていない。
「白金くん。いきなりなんだけど、来週行われるこの演奏会に、出演しないか?」
恩師は、にこにこと笑いながら一枚の紙を差し出す。俺は紙を受け取り、目を落とす。
「僕も関わってる演奏会なんだけどね、急遽一人、けがで出られなくなってさ。でも、会場近くの神社で秋分祭がやるらしくてね。君はすでに進路も固まって、余裕があると噂で聞いたものだから」
もちろんギャラは弾むよ、と笑顔で付け足す。
三年生になってからは、表立ったヴァイオリンの活動は控えていた為、まともなホールで開かれる演奏会に参加するのは久しぶりだ。自然と高鳴る胸を抑えて紙に目を落とす。
軽く内容を確認する中、開催地区を見て、あっと声を上げる。
紫野学園高校を検索した際に、見た名前だった。
高校の周辺に何か掴めないか調べた際、ここには大きな神社と広い川があり、居心地の良さそうな場所だなと思っていた。
何の偶然かわからないが、断る理由はない。
俺は、二つ返事で参加を引き受けた。
***
当日、早朝に家を出発し、駅から徒歩十分もかからない位置にある川に来ていた。
「広いな……」
対面でランニングする人が小さく見えるほどに幅が広い。雑草が生い茂り、所々に真っ赤な彼岸花が咲いている。不意に吹く風により、木々がサラサラと音を鳴らした。
川辺に目を向けると、今日は近所の神社で秋分祭があるからか、飛び石で遊ぶ子どもが目に入る。
俺は土手に下ると、茫然と辺りを見回す。無意識に目を閉じて、胸を開いた。
この地に訪れたことはないが、どこか懐かしい気持ちになる。
川の水が流れる調子も、木々の擦れる囁きも、橋に反響する車の振動も、以前感じたことのあるようなデジャウを感じる。
ノイズが一切響いておらずに、心が洗われるようだった。
ふと視線を感じて顔を向けると、一人の小学生くらいの男の子が、俺のヴァイオリンケースをじっと見ていた。
「どうかした?」俺は笑って尋ねる。
「お兄ちゃん、これ、ヴァイオリン?」男の子は素朴に問う。
「うん。よくこれが、ヴァイオリンだってわかったね」
「僕のいとこが昔、コントラバスを演奏してて、その時に同じケースを持った人がたくさんいたから」と男の子は得意気に答える。
「弦バスしてるなんてカッコいいね」俺は波長を合わせて笑う。
「ね、お兄ちゃん演奏してよ」男の子は尋ねる。
「さすがに、今すぐは難しいかな」
俺は苦笑すると、前方に建つ大きなコンサートホールを指差す。男の子も釣られて顔を向ける。
「お兄ちゃん、今日のお昼にあそこで演奏会するんだ。よかったらご両親と一緒に見においで」
そう言うと、男の子は「うん!」と元気よく頷き、高架下に座っているお母さんらしき人の元までぱたぱたと走っていった。
俺は彼の背中を見送ると、周囲を見回す。
屋外で演奏する機会はほぼないが、このような自然から生まれる音色に溢れた環境でヴァイオリンを弾くのは心地良さそうだな、と素直に思った。
特に高架下は、橋までの天井が高く、音に包まれて小さなコンサートホールのようになりそうだ、と内心思う。
もう一度大きく息を吸って空気を味わうと、会場へと足を進めた。
***
演奏するコンサートホールは、街から少し離れた地方に位置するものの、会場内は優美で格式高い空間だった。
玄関は豪華な装飾が施され、絨毯の敷かれた広い階段、ホール内は天井が高く三階席まで備わり、金色の柱や彫刻からも品位を感じられた。何度か訪れたヨーロッパにある劇場を彷彿とさせるような建築だ。
外観から想像できなかっただけ目を丸くした。
「さすがに、こんな場所にさっきの子が来るのは難しいかな……」
俺は苦笑する。飛び入り参加なだけに、まともに下調べをしていなかったのだが、まさか地方にあるコンサートホールが、こんな気品漂う建築だとは想像しなかった。
「白金くん」
名前が呼ばれて顔を向けると、細身のスーツを着用した恩師が立っていた。
「すごいでしょ、ここ。今年の夏に、できたばかりの会場らしいんだ」恩師は周囲を見回しながら言う。
「あなたが関わってるって理由もわかりましたよ」俺は肩を竦める。
「さすがに建設から携わってるわけじゃないけどね。一目見て、一度使用してみたいと思ったんだ」
恩師はにこやかに答える。
控室はこっちだね、の言葉に、彼の後に続いた。
控室のドアを開けると、中は白一色で統一され、真新しい新築のような香りが漂っていた。
「今日は祭りで人が集まるとはいえ、中々入り辛いのでは?」
机にヴァイオリンを置きながら、何気なく恩師に問いかける。
「いや、むしろそのイメージを払拭するように、今回企画したって感じなんだよ」
恩師は、得意げな顔をして指を鳴らす。
「外観は特に目立つわけでもないからね。こんな立派な会場があるなんて、多分、地元の人もまだあまり知らないんだよ。それに、君のおかげでより一層親近感が湧くかもね」恩師は意地悪そうに目を細める。
「俺のおかげ、とは?」俺は素朴に問う。
「君の腕は確かだ。だからこそ、外見から受ける印象とのギャップがおもしろいなって」
恩師は俺の頭部に目を向けて言う。俺は苦笑しながら、自分の頭髪に触れる。
「確かに、こんな派手な髪色の人が、このような場所でヴァイオリン弾いてたら、少し親近感は湧きますね」
音出しはむこうにある部屋使ってね、と恩師は言うと、足早に何処かへ向かった。
時計を確認すると、開場まであと二時間を切っている。俺が出演するもの以外にも何組か詰まっているらしく、祭りの終了する夜までスケジュールが組まれてるという。
俺は相棒を手に取ると、練習部屋へと向かった。
***