1時間目:社会2



 まだクラス発表されたばかりからか、一年クラスの並ぶ一階廊下は閑散としていた。朝日の恩恵を受けようとしているのか、電気がついていない。だが残念ながら北側で薄暗い。壁に飾られた新入生歓迎のリボンも気持ち程度の祝福にしか感じられなかった。

 こっそりつけてきたペンダントを服の上から握り、一歩一歩教室へと向かう。歩くたびにギシッと木造建て特有の軋みが走った。

 莉世は、「一年四組」と記載されているプレートを確認すると、扉の窓から中を伺う。

 教室内には、二十ほどの座席が並んでいた。座席上には、書類の入った封筒と花のコサージュが置かれている。前方はぽつんと座席表の張られた黒板、後方はがらんどうのロッカーが並ぶ。

 一人、少年がいた。奥の窓側座席で外を見ながら陽の光を浴びている。光に照らされる少年が妙に神々しく見えた。

 他に誰もいない。同じ一人だと勝手に仲間意識を持つと、大きく息を吸って扉を開けた。

 力が入っていたのか、戸はガラリと大きく音が鳴る。だが少年は、こちらにひと目もくれずに外を眺めていた。余裕が感じられることに少しだけムッとなる。

「こ、こんにちは」

 莉世は、思い切って声をかける。少年は無言でこちらに振り向く。

 清潔感ある黒髪は、陽光に照らされて青く輝く。学ランのボタンはきちんと首元まで締められ、皺もない。長いまつ毛の目元やくすみのない白い肌からも綺麗な人だな、と素直に思った。

 少年の視線に我に返る。茫然と見惚れていたことに頭を掻いて誤魔化した。

「同じクラスの南雲莉世です。よ、よろしく……」

 勢いで自己紹介してしまったことに恥ずかしくなり、語尾は消えそうになる。

 少年はじっと莉世を見た後、再び窓の外へと顔を向けた。会話する気が感じられないことから、莉世は口をぎゅっと結ぶ。口元を抑えながら黒板に掲示された座席表を確認すると、そそくさと席へと向かった。

 座席は名簿順で決められていた。名字が「な」である莉世は中央列の真ん中席。端を好む日本特有の性質が備わっているだけやり辛い。

 机上に載せられている物を手に取り、鞄を置く。

 外で騒ぐ人たちの声がこの場まで届く。教室内は莉世と少年二人だけで静まり返っている。まるでこの教室だけ周囲から切り離されたかのような空間に感じた。

 気まずい。

 少年を一瞥するが、彼は変わらず窓の外を見ていた。やりずらさを誤魔化すようにコサージュを弄る。

 この街ではできるだけ静かに過ごすとは決めていた。だけど孤立して過ごすのも嫌だった。ほどほどに友人とつきあい、大好きな家族と平穏に暮らすことだけを求めている。そんな平凡な日常も叶わないのではないのか、という不安がふつふつ湧いてきた。

 本当にこの教室は皆に見えているのか。もしかしたら皆には気づかれない別空間に迷い込んでしまったのではないのか。そんな突飛な思考に至り、莉世の目には薄っすら涙が浮かぶ。唇をぎゅっと噛んだ。

 こんなに不安になるのも、全部悪夢のせいだ。

 早く誰か来ないかな、と思った瞬間、「いっちばーん!」と勢いよく扉が開き、肩を飛び上がらせる。顔面からどっと汗が湧き出た。

 強張った顔で前方扉を見ると、声の主と目が合った。慌てて顔を逸らす。

「あ、一番じゃなかった。はっず~」

 声の発生源である少年は、小さい瞳を細め、頭を掻きながら教室内に入る。外された帽子の下からラフに跳ねた髪が覗く。大股で教壇の前まで歩いた。

「おい、佐之助。速いって!」

 遅れて友人らしき人物も数人教室に辿り着く。彼らの勢いに学生マントは軽やかに揺れる。

「わりぃわりぃ、一番だと思って。違ったんだけど」

 短髪の青年はカハハッとからっと笑う。言葉以上は考えていない軽さを感じた。

 気付かれていなかったことに莉世は静かに赤面する。知り合いがいないと話すこともなければ物音を立てて存在を証明しようがないじゃないか、と誰に聞かれるでもなく内心必死に言い訳した。

 悶々と考えこんでいると、次第にきゃははっと高い声が教室に近づいてくる。

「男子って、無駄に一番に拘るとこあるよね~」

 声の主である女の子が呆れたように言葉を発しながら教室に入る。セーラー服のスカートは短く折られ、手首にはシュシュが付けられている。サイドに流された髪はゆるく巻かれ、大ぶりなバレッタで留められている。まだ中学生一日目の入学式であるのに、すでに制服は彼女色に染められていた。

 彼女の後に友人も数人続く。女の子集団は、黒板に掲示された座席表を確認しながら「え~近い」「離れたし」と各々話す。

 そんな様子を男子集団の中心にいる佐之助(サノスケ)と呼ばれた短髪の少年は、怪訝な顔で睨む。

「まじか。ヤマンバと一緒かよ」

「その呼び方、止めてって言ったでしょ」

 最初に入ってきた女の子は、短髪の少年を睨む。

「せっかく小学校別だったのにな~。何で一緒なんだ」

「それは、こっちのセリフなんですけど。あんたがいたら絶対うるさいじゃん」

「どうせ授業も寝てばっかのくせに」

「あんたと一緒にしないで」

 短髪の少年と奇抜な女の子は睨み合う。二人からは、互いに顔なじみである荒さが感じられた。

 この桜鼠中学校は、主に北桜鼠小学校と南桜鼠小学校の二校の生徒が通うことになっていたな、と莉世は内心思い返す。恐らく二人は幼少期からの知り合いで小学校は別だったのだろう。

 ふいに、ヤマンバと呼ばれた女の子と目が合う。心が読まれたのか、と慌てて顔を下に向けた。

「げぇ。あたし、中央じゃん」

 女の子は、莉世の後ろ座席に鞄を置く。つんと鼻に残るフローラルの香りが舞った。



 派手な人と前後であるだけ無意識に萎縮する。そんな莉世に気付いた女の子は、彼女に顔を向ける。

「あなたは南雲さん?」

「は! ひゃい……」

 唐突に呼ばれた名前に変な声が出る。遅れて顔面が真っ赤になり、汗が噴き出した。そんな莉世の反応に、女の子は「何、今の声」と目尻を下げて笑う。

「座席表に書かれてたからさ。あたしは、西久保 和奏(ニシクボ ワカナ)」

「な、南雲莉世です……」

 莉世は、しどろもどろになりながら頭を掻く。

「莉世ちゃんは、北鼠だよね?」西久保は問う。

「あ、いや……私はこの春、この街に来たばかりで……」

 おずおず答えると、西久保は不意をつかれたようにキョトンとする。

「そうなんだ。どこから?」

「えっと、東京から……」

「東京!?」

 西久保は、目を丸くする。彼女の通る声に、周囲の視線が集まる。莉世は、慌てて手を振った。

「いや、でも、地元はそんな都会、とかじゃないよ……」

「東京ってだけでかっこいいし。わざわざこんな田舎まで来るなんてさ」

「パ、パパの転勤で……」

 何故か弁解していた。実際地元は東京ではあるものの、ビルの並ぶ二十三区からは少し離れていた。

 あまり自分の話題で皆に注目されたくない。

「何なに、おまえ、東京から来たんだ?」

 莉世の思いと裏腹に、会話が聞こえていたのか、佐之助と呼ばれた少年は、莉世を物珍しそうに見る。

 そんな彼に、西久保は眉間にシワを寄せる。

「女の子におまえって言うな、猿。莉世ちゃんって名前があるんだよ」

「猿って呼ぶなヤマンバ。俺には、東 佐之助(アズマ サノスケ)って名前があるんですぅ」

「あたしにも、西久保和奏って名前があるんですけど!」

 二人は再びにらみ合う。目前で繰り広げられる痴話喧嘩に、莉世は気が抜ける思いだった。

 だが、そこで「あ、それなら」と、東は思い出したように莉世に振り向く。

「あの神社の話も知らねぇのか」

「あの神社?」莉世は首を傾げる。

「もしかして、藍河稲荷神社のやつ?」

 西久保は、怪訝な顔で尋ねる。東はおうっと頷く。

 藍河稲荷神社は、この藍河区を代表する観光名所だ。この街に来たばかりの莉世も存在は知っていた。

「その神社、実はやべーんだよ。あそこに封印されていた石が割れたみたいでよ」

 東は胸を張って楽しそうに言う。やばいと言いながらも対照的に話す彼に莉世は首を傾げると、西久保は軽く首を振りながら口を開く。

「鬼か妖怪か霊か、何かが封印された石があの神社にあったんだけど、何年か前にいきなりヒビが入ったみたいでさ」

「その石の祟りなのか、今、いろんなところで妙な噂があるんだぜ。怪異だ、怪異。おまえはおばけのはびこる街に引っ越してきちまったんだ」

 東は、両手を胸の前でブラブラさせて言う。自分を怖がらせるためだと内心わかりながらも、莉世の身体は反射的に震えた。

 怪異なんてあるわけない。そんなものは夢や空想の中だけだ。そう思いたい願望から信じてはいない。だが、例え噂だとしても、できるだけ近付きたくない。

「噂って、どんな……」

 恐る恐る尋ねると、二人は口角を上げて腕を組む。

「最近聞いたのは、神社近くの山を夜に歩くと後ろをついてくる犬がいるってやつ」

「山中の墓地では、化けカラスが現れて人間を襲う、ってのもあんな」

「深夜二時に四方通りを顔のついた火車のような妖怪が走る、とか」

「一消池は、タクシーに乗せた女性が消えたことで有名だな」

 次々飛び出る怪談に、莉世の頬は痙攣する。

「そ、そんなにあるんだ……」

「ま、石が割れたのも怪異も全部噂だし、本気にすることないよ」話はおもしろいじゃん、と西久保は言う。

「そもそも、幽霊なんているわけねぇしな」東も、愉快げに肩をすくめる。

 キーンコーンカーンコーンとベルが鳴る。その音で正気に戻る。緊張感のない彼らの態度から、気づけば警戒が解けて普通に話していた。

 時計は、八時二十分を指していた。いつの間にかクラス内には人が集まり、あちこちで会話が繰り広げられている。だが、莉世よりも早く来ていた美型の少年は、いまだ一人で外を見ていた。彼のいる空間だけが別世界に存在しているかのような神々しさを感じる。

 教室のドアが開かれ、担任と思わしき教員が入ってきたことで、莉世も準備を始めた。

☆☆☆