アパートまで辿り着き、メイの部屋へと訪れる。風呂から上がってきたメイは、どう見ても先ほどのメイとは別人の顔つきだった。
子犬のように栗色の髪をプルプルと震わせ、「スッキリしたー」と叫び、しきっぱなしにしていたふとんの上にダイブする。私はその光景を茫然と眺めながら、先ほどミカに言われた言葉を思い出していた。
「一度死んでしまうと、生き返ることはできない」
言葉の意味はわかる。ロボットでもない限り、再び息を吹き返すなんてことはあり得ない。それがこの世のあり方、命あるものの仕組みだからだ。
でも、どうしてそれを私に言ったのか。
自分の手を見て指を動かす。ちゃんと自分の意志で動かせている。次に右手で左手をつねるようにする。ちゃんと感覚もある。私は今ここに、確実に存在しているんだ。
もう一度頭を捻る。ミカはその言葉の前に何と言っていた?
「この世界は色づいて見える?」
山の中はとても青々としていたし、ミカの血は鮮やかな赤色だった。今目の前でふとんに転がるメイの髪はきれいな栗色をしていて、対面に座るガラクはとてもきれいな白髪だ。
隠すことなく顔を向けてしまったので、ガラクが私の視線に気づいて目が合った。
「ねぇ、そろそろ教えてよ」
明るくて通った声によって、現実に引き戻される。メイはふとんでゴロゴロしながらガラクに言った。
ガラクもその声に引き寄せられるように反応して、持ってきたドリルの内の一冊を机に開いた。メイはガラクのそばによる。
その様子を茫然と眺めている私に気づいたメイが、私に顔を向けた。
「ボクね、たくさん本が読めるようになりたいんだ。自分でも読めるようになると、いまよりもっといろいろな世界を知ることができるでしょ。ガラクが教えてくれるっていうから頑張るね!」
眩しい笑顔でそう言った。ガラクが提案したのだろうか。先ほどの様子からも、彼は本当にメイの扱い方を熟知しているように見える。そんな二人が微笑ましく感じた。
本…
そういえばしおりを渡していなかった。
「実は、二人に渡したいものがあるんだ」
さっそくドリルを開いている二人に声をかける。
「渡したいもの?」
「うん。ちょっと待っててね」
そう言うと、私はそそくさと部屋を出て、自室にしおりを取りに戻る。
「二人には少し可愛すぎるかなって思うんだけど」
おずおずと押し花のしおりを差し出す。リボンは青と黄色。赤色のしおりは私が使用していた。
「きれい~!これアリスが作ったの?」
「うん。きれいな花をもらったから」
「ありがとう!」
そう言うと、メイは黄色のリボンのしおりを受け取る。透き通った目をキラキラ輝かせていた。
青のリボンのしおりをガラクへと差し出すと、彼は無言で受け取る。何も言わないが、しおりに関心を抱いているようで空に翳すようにして見ていた。
「このしおりたくさん使いたいから、ボク頑張って文字が読めるようになるね」
メイは俄然、やる気が出たようだ。二人は読み書きの勉強を始めた。
いつも見ている、二人の仲睦まじい光景。
それはもう、さっき見た現実が夢だったのかと疑うほどの――。
あれ?私はさっきまで、何をしていたんだっけ。
今見ているこの光景は、現実――?
だったら、さっきのは都合の悪い、悪夢だったのか――?
「――――――アリス?」
その声にはっとして、我に返る。
顔を上げると、二人はこちらを見ていた。
「大丈夫?顔色悪いよ?」メイは心底心配するような澄んだ目で言った。
「……大丈夫。最近眠ってないから、少し休んできてもいいかな?」
「睡眠は大事だよ!ゆっくり休んでね」
その言葉を背中で受け止めながら、自室に戻った。
状況が掴めない。頭が混乱している。私は先ほど起こったことと、今起きてることが現実なのか夢なのかの区別がつかなくなった。
自室のふとんに寝転がりながら目を閉じた。
ミカは死んでいなかった?
そうだ。さっきの二人こそ私の知る二人のあるべき姿なんだから。
そもそもミカは登校拒否だったのに、裏街道にいるはずないじゃないか。それにメイは、まだ身体の小さい子どもなんだ。だから人を殺せるはずないんだ――――。
「そうやって、都合のいいことばかり受け入れるつもりなのか」
どこからか聞こえたその声に、はっと目を覚ます。
身体を起こして玄関の方へ顔を向けると、そこにはガラクが立っていた。
「ガラク……?」
「安心しろ。メイはさっき寝た」
私が尋ねるよりも前に、ガラクは答えて部屋内に入る。
「大丈夫か?」
ガラクは私の目を見て問う。いつになく優しくて温かい声だ。その声に安堵して、そして冷静になることができた。
「ごめん……少し混乱してしまって。見えているものが現実なのかがわからなくなった」
正直に話した。その言葉を聞いたガラクは、溜息をついてソファに腰かけた。
「逃避願望が生まれると、目の前が暗くなるという話は、以前したな」
「え?」
「都合の悪いことは精神的に受け入れられなくなる。そしてそれが視覚にも表れる。そうして裏街道の扉が開かれたと。だからおまえは、目の前で人が殺された現実を受け入れられなくなってるんだ。それに……」
そう言うと、ガラクは私の目をじっと見つめた。少したじろいだが、彼の碧色の目には、どこか哀れみの色も混じっていた。
「やはり気づいていなかったんだな。それほど裏街道に馴染んでいたということか」
言葉の意味がわからずに首を傾げていると、ガラクは言葉を続けた。
「おまえは、もうずいぶん前からメガネをかけていなくても、この世界が見えている」
その言葉を聞いて思わず目の辺りを触った。確かに今、メガネをかけていない。それどころか、ここ最近の私は、メガネをかけた記憶がなかった。
裏街道に来た時は、メガネなしでは周囲が見えないほどに暗かった。色なんてまともに判別できなかった。ショッピングモールへと続く道、初めは暗くて人気が感じられなかった。路地裏なんて真っ暗だった。階段の血痕さえも最近まで気がつかなかった。
それなのに最近は、だんだん人が増えたと感じ、少年のしていたパズルの色も見え、遠方にいる人の姿も捉えることができて、花壇の花の色までわかるようになっていた。
メガネは対象を見ることはできるが、暗視スコープのようなものなので、色まで判別することはできなかった。
あまりに自然に見えているので、ずっとつけっぱなしにしているものだと錯覚していた。
「ここに滞在する中で目が適応し、都合の悪いことは見えなくなる。それと同時に、裏街道の様子が見えるようになっていたんだ」
メイも時間が経てば目が適応すると言っていた。それはこのことだったのか。
だが、そこで再びミカの言葉を思い出す。
――――ねぇアリス。いまアリスの目には、裏街道はどう映ってる?
――――手遅れになる前に帰ったほうがいいよ
―――一度死んでしまうと、生き返ることはできない
それは目のことを言っていたのか?
それなら今、私の目は――――
「ねぇ、ガラク」
私はガラクを見て尋ねる。彼は私に目を合わせて反応した。
「今、私の目はどうなってるの?」
裏街道の住民の目は黒い。
メイと初めて出会った時を思い出す。彼の目が黒くて、ホラー特集にでも出てくるように思えて怖かった。メイだけでなく、ここで出会った住民の目はみんな黒い。
だが最近では、目が異様だとは思わなくなっていた。そのことにすら気づかなかった。
ガラクは同情するように小さく息を吐いて答えた。
「もうずいぶんと、黒くなっているよ」
ミカの言葉の意味が理解できた。つまり目が黒くなることは目が死ぬということ。ミカは私の目を見て、それに気づいたからあんなことを言ったんだ。
ということは、
「ガラクは、私の目が死にかけていることは気づいていたの……?」
「あぁ。はっきり気づいたのは、おまえが花の色を認識した時だが、最近は目に見えて黒くなり始めている」
主婦に花を貰った時のことだ。確かにあの時のガラクは少し驚いたような表情を見せた。
何故言ってくれないんだと思ったが、逆に何故と問われるのは目に見えていた。それがこの世界の通常だから。何より私はいずれ死ぬのだから。
今、私の目がどんな風に見えるのかが気になった。
確認しようと立ち上がるが、そこで静止する。
このアパートには、鏡がない。
そのことから、もうひとつわかったこと。
メイはこれを懸念して、鏡をあらかじめ外したのではないのか。
私はメイに初めて出会った時、目が黒いことに畏怖してしまった。自分自身がそのような見た目になっているのだとしたら、鏡でその現実を見てしまったら、元に戻りたいと、表に帰りたいと思ってしまうのではないのか。
何も証拠がないが、そう考えると鏡がないことにも納得できた。
立ったまま静止した私を見る視線に気がつき、我に返る。私はガラクに向き直って尋ねた。
「目が黒くなると……どうなるの?」
そう尋ねると、ガラクは小さく首を振って口を開く。
「表で生活するのは困難になる」
ガラクは頭上を指差す。指された先には電気があった。
「まずは電気。明るいものは刺さるように眩しく感じる。それもただ眩しいというわけではない。目が焦げるほどの痛さだ。視界が奪われることによって生活が不自由になるのは、この世界に来た時におまえも感じたことだろう」
確かに裏街道に来た時はとても暗くて不便だと感じていた。
そして思い出した。アパートの部屋に初めて入室した時、メガネをかけたまま電気をつけた。あの時の刺さるような衝撃を。色は判別できないが、それでもメガネが裏街道の住民の目の役割をしていたなら眩しいと感じるのも当然だ。
ガラクは足を組みかえて続ける。
「そして、裏街道の扉の話をした時にも言ったことだが、都合の悪いことは見えなくなる。実際には現実でありながらも、受け入れられなくなるんだ。ここの住民の行動原理は自分でしかない。だからおまえも、森で見たメイの行動を受け入れられなくなっていた」
今まで自由と感じていたことも行動原理が自分だったから。だからこそ裏街道の住民は他人に干渉しないと言えるのか。花をくれた主婦も自分が相手に渡したいから行動したように見えていた。
「だったら、今まで私が見ていたものは……」
「全て現実だ」ガラクは、はっきりと言った。
「目が死ぬと、視覚的にも精神的にも現実が見えなくなる。そして」
ガラクは自分の目の横をとんっと指差した。
「しばらくここに住み続けていると、例え目が死ぬ前に訪れた表の人間も裏街道に目が慣れる。食事をとらなくてもいい身体になるように、この街に来た時点でゆっくりと適応し始めるんだ。そして、時間はわからんが適応し始めると早い。だからおまえが表に帰る頃までには、目は完全に死んでいるんじゃないのか」
元々私は表に帰ったら死ぬと言っていた。だけど、もし実行しなくても、帰る頃には目が完全に死に、表で生活することが困難になるから、どのみち裏街道に住むしかなくなる。
だからメイは、表世界に帰ると言った私を止めなかったんだ。
「だが、まだ死んでない。だから生き返る可能性はある」
ガラクは目を細めて、私に顔を向けた。
「表に帰るなら、今のうちだ」
***