夏休み➀



「私、夏が嫌いなんだ」

 目の前で冷やし中華をすする月夜は、感情の微塵も感じられない表情で言った。
 
「何、いきなり」

 私は、特に驚いた様子もなく、冷やしうどんをすする。「もし私が夏って名前だったら、傷つく言い方」

「虹ノ宮は盆地だし、気温が高くなくても湿度が高い。まるでお風呂の更衣室」
 月夜は、ピリピリ言う。彼女の白い額には、じんわりと汗が滲んでいた。

「苦手なんだよね。大浴場やプールの更衣室とか」

「わからんでもない」
 同意した。特にプールの更衣室は、水分と人間の密で独特な蒸気が発生し、私も苦手だった。

「曇ってても、汗が吹き出すし、夏って本当に嫌い」

「夏さんが、かわいそうだよ」

「夏に、人権はない」
 月夜は、冷やし中華を平らげると、カバンからハンカチを取り出して口元を拭った。

 そこで、ふと思う。

「だから、夏休みってものが、あるんじゃない?」

「そうね。夏は休むべきよ」

 私たちは、八月初旬の今日、全てのテストを終えた。初めての大学のテストだったが、マジメに出席していたおかげで何とか単位の心配はなさそうだ。
 そして今、今期最後の食堂で食事をしている。

 秋学期が始まるのは九月中旬。夏季休暇は一ヶ月以上あった。

 月夜は、スケジュール帳を取り出して、今月である八月のページを開いた。

「予定、いっぱいじゃん」

「大半がバイトだけど」

 スケジュール帳は、予定がびっちり書き込まれていた。大半がバイトの予定のようだ。天文部のイベントや合宿も、きっちり書き込まれている。

「夏は休まないの?」

「夏休みは、働く期間だよ」

 月夜は、先ほどの発言とは正反対の言葉を吐く。私は眉間にシワをよせる。

「月夜は働きものだよね」

「長期休暇は、稼ぎ時なの」

 じゃ、そろそろ、と立ち上がり、今セメスター最後の食堂を後にした。



***

 天文部は、夏季休暇中も、変わらず火曜日と金曜日に活動があった。さらにイベントが近づくと集まる頻度も増える。

 夏季休暇中にあるイベントは、天文台の施設で一般イベント、地元の神社での観望会、そして合宿があった。加えて秋の学園祭の為の準備もあるので、意外と活発に活動する。

 天文部に捧げる夏休み。私にとったら、嬉しい悲鳴だ。

『テスト、今日で終わりだったよね。お疲れ様』

 風呂上がり自室内。スマホを見ると、通知欄にそうメッセージが表示されていた。差出人は、土屋さんだ。
 久しぶりの連絡に、私は、思わず頬が緩む。

「テスト終わる日、覚えてくれてたんだ〜…」
 タオルで髪を拭きながら、ベッドにダイブした。

 連絡先を交換して以降、度々土屋さんとやり取りをするようになった。
 空模様の話はもちろん、講義の話や部活の話、バイトの話。そのおかげで、土屋さんについても少し知ることができた。

 土屋さんは、理学部で研究室にも入っている。さらに教職も取り、バイトもしているので、かなり忙しい日々を送っているようだ。それでもこまめに返信してくれることに感謝していた。
 だが、ここ半月はテスト期間だったことで、連絡が途絶えていた。

 テスト期間前のやり取りで、テストの話をしたことで、土屋さんは私の夏休み開始日を覚えてくれていたようだ。

 私は、ふとんに寝転がりながら、スマホをいじる。

『ありがとうございます。土屋さんもお疲れ様でした』

『ありがとう。初めてのテストはどうだった?』

『不安でしたが、何とか単位は取れそうです』

 何気ないやり取りでも楽しかった。返信が来るたびに心躍り、嬉しくなる。
 昨年から、憧れだった人と、今ではこうして連絡できる仲になれた。そう実感するたびに、歯がゆくなる。

 何度かやり取りをすると、私はスマホを閉じ、ドライヤーを手に取る。通知音が鳴るが、あえて気づかないようにした。

 自分が自分でないようだ。すぐに返信すると気持ち悪いかな、とあえて時間をおいたり、変な文章になってないかな、と何度も見直したり。ネタになるかな、とアプリスタンプを購入したり。
 絵にかいたような、片想いをしてる。

 私は、口を歪めながら、ドライヤーのスイッチをいれる。ゴーっと音と共に、髪を乾かす。

「土屋さんに、告白しないの?」

 先日、月夜に連絡先を交換した話をした時に言われた言葉だ。
 それを聞いて、ふと気づいたことがある。
 
 私は、土屋さんが好きだが、恋人関係になることは、想像していなかった。誰かと付き合った経験がないので予想ができない、というのもあるかもしれないが。
 片想いは、片想いしている期間が楽しいのもあって、正直両想いになったら、と考えるものなのだろうか。いや、考えはするか。めちゃくちゃ考えるかもしれない。
 だが、不思議と私は考えていなかった。

 好きな人、というよりは、憧れの人、の印象が強いのかもしれない。
 土屋さんは、言動、振る舞い、好み、全てが大人で、子どもみたいな私とは正反対。ないものねだりとも呼べる。

 有志観望会で、距離感が物理的にも接近した時は、ドキドキした。口から心臓が飛び出そうになった。
 そうなる未来を想像していなかったからで、望んでいたわけじゃない。

 でも、だからとそうなりたくない訳じゃない。むしろ、たまにそうなる未来が来るのでは、と勘違いしそうになる。

 土屋さんは、部活動でもメッセージでも、私のことを気にかけてくれる。細かいことにも気づいてくれる。
 それだけ周囲が見えてる人なんだ。

 もしかして、土屋さんも――――。

 私は、ブンブン頭を振った。自室内一人、赤面している事実にいたたまれない。

「うぬぼれんなって……」

 ドライヤーのスイッチを切り、茫然と天井を見上げた。

***