次の日の朝。ラウンジに向かうと、すでに瑛一郎はソファに座っていた。
彼は私に気付くと「おっす」と軽く手を上げた。
「早いね」
「いつも朝五時には起きてるからな。勝手に目が覚めてしまうというか」
少しだけ共感できた。
私も六時ニ十分に起きることが習慣になり、今ではアラームよりも早く目覚めるようになっていた。
しばらくすると、祐介に美子、渚、蓮がラウンジへとやってくる。
「あれ、何で瑛くんがいるの?」
渚は驚いた顔で尋ねる。
「おっす。今日は特別講師として、俺も参加させていただきます」
瑛一郎は胸を張って宣言する。
「瑛くんから教わることなんて、何もないけど~」
美子はクリームパンを齧りながら言う。
「ひどくね? 俺、こんなんでも一応、年上」
そう言って、瑛一郎は自身を指差す。
瑛一郎は、私と蓮以外の三人とも話す仲ではあったので、特に問題もないだろうと説明していなかった。昨日の今日なだけに、時間がなかったとも言える。
「とまぁ冗談は置いといて、おまえらいつもここで運動してんのが外から見えててさ。どれだけハードなんかなぁって気になって、今日朝練ないし参加させてもらおうかなって」
「良い根性ね! もし最後まで立ってられたら、『渚プログラム達人』の称号を与えてあげる」
渚は胸を張る。
「おうともさ! 何でもかかってこい!」
瑛一郎は、両手を広げて構えの体勢になる。
早朝には少々鬱陶しい熱さだが、逆に渚のテンションについていける貴重な人物なのかもしれない。
現に祐介も美子も蓮も、冷ややかな目で二人を見ていた。
「じゃ、いつも通りラジオ体操からね。始めるよ!」
渚がそう切り出したことで、私たちは適度に場所をとった。
***
「いっそ、殺してくれ…………」
瑛一郎は、ソファーの上で、ぜーぜー息を吐きながら呟く。
あまりにもわかりやすい、即オチ二コマ漫画だ。
「だ、だから言ったでしょ……。瑛一郎でもこうなるんだから……普段運動していない私たちにとったら、さらに過酷なんだよ……」
私もソファに寝転がりながら弁解する。
「みんな情けないなぁ。これぐらいのことで」
渚はスポーツドリンクをぐびぐび飲みながら言う。
彼女はほとんど息を切らしていない。常にエンジン全開のテンションであることから、スタミナは誰よりもあるとはわかっていたものの、ここまでくると美子の大食いのように、むしろ一種の体質なのかもしれない。
「渚ちゃん、いつもこれやってるわけ?」
瑛一郎が寝転がったまま問う。
「そうだよん。仕事始めてからずっと」
渚はウインクして言う。
高校生という若い年齢もあるが、彼女の引き締まった健康的な身体も、運動の成果なのかと思うと、少しだけ見直すものだ。絶対口には出さないが。
「俺、体力はまだ自信ある方だと思ってたんだけど、なんかすげぇショックだわ~。力不足だって自覚してしまったな。明日からは俺もトレーニング量、もっと増やさねーとなぁ」
「じゃあ、瑛くんも毎日来る?」
渚は嬉々として尋ねるが、瑛一郎は静かに首を横に振る。
「基本的に平日は朝練あるし、日曜は他の奴らと練習してるからな~。だから今日だけで」
「だったら土曜日だけでも」
「それも良いけど、でもそれもしばらく先かな」
「先?」祐介は素朴に問う。
瑛一郎はこちらに顔を向けると、愉快そうに口角を上げる。
「何か悔しいだろ。だからもっと体力つけてから参加してーんだ。これだけ成長したんだっておまえらにわからせてやる。いわばこれはリベンジだ」
そして次こそ、称号を取ってやる! と渚を指差す。
渚は、ご満悦顔で「心意気はしかと受け取った!」と腕を組む。
「さすが、体育会系」祐介は目を細めて笑う。
「さすが、スポーツ馬鹿」美子は身も蓋もないことを言った。
「だからこそ、監視が必要だな」
そう言うと、瑛一郎は大型テレビの隣にある棚まで歩くと、ポケットから何かを取り出し、それを置いた。
私たちは皆、置かれたものに注目した。
「何これ?」
「これは俺の分身だ。おまえらがやめないようにも、常にこいつが見張っているって覚えとけ」
棚の上に置かれたものは、エイのような生き物のぬいぐるみだった。
手のひらサイズであり、水族館の売店でよく売られているような、可愛らしいデザインのものだ。
瑛一郎の発言と置かれた物のギャップに思わず失笑する。
「エイ……」蓮は意味深に呟く。
「瑛くんだからエイ?」
渚はポカンと口を開けて問う。
「おまえ……こんな趣味あんのか」
祐介は憐憫の目で尋ねる。
「違う! これはゴールデンウィーク実家に帰った時に、なんか大量にもらっただけだ。名前が瑛一郎だからか『エイ』のグッズばかり買ってきてよ~」
昔っから困んだよな、と瑛一郎は大袈裟に手を振って弁解する。
「瑛一郎から貰うものはエイ関連が多くて自己主張が激しい」とは身内から聞いていたので、少し同情した。
「でも、かわいいね~。監視、頑張ってね」
美子は、てててっと棚に近づくと、ぬいぐるみの頭を撫でた。
***
授業が終了し、風呂や夕食も済ませて、自室で寝転がってスマホを触っている時だった。
「哀!」
「わっ!」
突然、勢いよくドアが開かれ、私は持っていたスマホを顔面に落とす。
「いっ、いったぁ~!」
「もう! 相変わらずダラダラしているんだから」
物音の発生源の渚は、何食わぬ顔で室内に入ってくる。
「夜ぐらい休憩させてよ……」
私は額を擦りながら、ベッドから身体を起こした。
「おっす」
「こんばんわ~」
「どうも」
渚に続いて、祐介、美子、蓮も室内に入ってくるので顔が引き攣った。
「な、何……どうしたの?」
「俺らもわかんねーよ。渚に呼ばれてさ。って哀、何でそんな涙目なんだ?」
祐介は私の顔を見て目を見開く。
「こ、これは、別に関係ないです……」
私は苦笑しながら目を擦った。
「どうせ同じことを言うなら、全員集まった時の方が効率が良いじゃん!」
渚は至極当然のように言うので、「先に一言くらい連絡は欲しいんだけど……」と顔を歪めた。
この寮は、大きく中学生棟と高校生棟に別れており、さらにその中で男子と女子で別れている。そして個室は、上級生かつ女部屋の方が広くなる。
私は高校二年生の女子であることから、悲しくも位置的にも広さ的にもベストだった。その為、五人で集まる時は私の部屋が選ばれることが多かった。
いつものことではあるが、毎回私のだらしない姿ばかり見られているので、何だか腑に落ちない。
基本的に授業中と寝る時以外に鍵はかけていないが、そろそろ検討するとしよう。
「今日はみんなに、重大発表があります!」
渚は、胸を張って切り出す。床に座っている私たちは、特に身構えることなく彼女を見上げる。
彼女は、カマキリを見つけただけで、「仰天ニュース」と呼ぶほどに物事を誇張する癖があった。
「なんとあたしは、明日は朝から撮影があるので、朝の運動に参加することができません! なので明日は『臨時休養日』といたします!」
「ほあ~」美子は気の抜ける反応をする。
「朝から撮影とか大変だなぁ」祐介は同情の声を上げる。
「そうなんだよね。さっきスケジュール確認してびっくりしたよ。まさかの七時にスタジオ入りだっだからさ」
「スケジュールを前日に確認するおまえも大概だな」
これはマネージャーさんも大変なわけだ、と祐介は続ける。
「うるさいわね! 今日が金曜日だって忘れてたのよ! みんな毎日休まずに頑張っていたし、たまに飴を与えるのは監督の役目でしょ。素直に喜んでよね」
「飴ちょうだい~」
美子は空っぽな言葉を吐きながら両手を差し出す。そんな彼女の手を渚はパンッと叩く。
「というわけで、あたしは明日の為にも、もう寝ます! 八時に就寝! 健康児! じゃ、解散!」
渚は、相変わらずのマイペースでその場を仕切ると、足を踏み鳴らして自室へと戻った。
残された私たちは、彼女の出ていったドアを茫然と眺める。
まるで嵐が過ぎ去ったようだ。
「ま、たまには休みもありだな」
祐介は、首を掻きながらドアへと向かう。
「明日は一日寝てよ……」
蓮もあくびをしながら立ち上がる。
何のことかと思ったが、久し振りに朝ゆっくりと眠れることに内心胸が弾む。
私も明日は時間を気にすることなく休むぞ、と再びベッドに寝転がった。
***
昨夜、渚から自身の都合で、朝の運動は『臨時休養日』だと言い渡された。
それなのに何故か、渚以外の四人とも、朝六時半にラウンジに集まっていた。
皆、やりずらそうに顔を歪める。
「何で、来てんだろ……」
祐介は、額を触りながら苦笑する。
「せっかくの休みなのにね……」
私もつられて笑う。
「なんかね~目が覚めちゃった」
美子は、カレーパンをほおばりながら言う。
「悪い習慣がついてしまったわ」
蓮が、悔しそうに頭を掻く。
「そうだな。意識とは裏腹に身体がここ向かってたんだよな。習慣ってものは恐いな」
「でもねぇ、運動した後の方がごはんが美味しく感じるんだ~」美子はにっこり笑う。
「まぁ、この時間に起きた方が昼寝が捗るし……」蓮はぶつぶつと弁解する。
そんな二人を見た祐介は再び笑うと、大型テレビの隣に置いてあるラジカセを取りに向かう。
「あ、お兄ちゃん! その子も仲間に入れてあげよ!」
「その子?」
「その子!」
美子は、大型テレビ横の棚上を指差す。視線の先には、あのエイのぬいぐるみがあった。
「今日は一人不在だから、代わりに」
「渚の代わりにはならんがな」
祐介は苦笑しながら、エイのぬいぐるみを手に取る。
中央の机にラジカセとエイのぬいぐるみが置かれる。
いつものようにラジカセを中心に場所を取るも、この状況に再び口元が綻んだ。
「何か瑛一郎を召喚する儀式みたいだな」
「同じこと思った」
中央の机を囲うように距離を取っている為、傍から見たら円陣の中心に供物が置かれた儀式をしているように見えるだろう。
「あいつが現れるのか……」
蓮は僅かに不快感を滲ませる。
「別にいらない~」
美子はあっさりと拒絶した。
祐介がラジカセのボタンを押すと、馴染みの音楽が流れ始める。
着々とラジオ体操、ストレッチ、と渚プログラムをこなしていた。
「おっおまえら!」
気の抜けるような癖のある声が響き、私たちは振り向く。
「休まずちゃんとやってんだな。あれ、今日は渚ちゃんいないんだな…………って何、そのぬいぐるみも仲間に入れてやってるのか!」
突如現れた瑛一郎が、中央に置かれたエイのぬいぐるみを見ると、嬉々としてこちらに近づいてくる。
そういえば今日は、土曜日だったと思い出す。
私たち四人は、思わず顔を見合わせて笑った。
***
「ちょっと! またあたしが不在の時に楽しいことしたんでしょ!」
次の日の朝、ラウンジに向かった際に渚が唐突に切り出す。その頬はハムスターのように膨らんでいた。
「何のこと?」私は素朴に問う。
「昨日の夜、瑛くんから聞いたよ! 昨日の朝、何か楽しそうなことやってたって!」
「いや、別にいつもの運動していただけだけど」祐介も何のことだ、と首を傾げる。
「嘘だ! 何か儀式みたいなことやったんでしょ!」
「儀式……」
思わず私たちは頬が緩む。
その反応を見た渚の顔は、さらに険しくなった。
「ずるいずるい! いつもあたしがいない時に楽しいことばっかやってさぁ! ハミゴは良くない!」
「というかあいつ、何でそんなこと言ってんのさ」蓮は露骨に顔を歪ませる。
「あの人、自分が話題にされるの好きだよねぇ~」
美子は、若干距離の感じられる話し方で言う。
昨日の朝、私たちの元に現れた瑛一郎の満更でもなさそうな顔を思い出す。
美子の言う通り、自分が話題になったりいじられたりすると喜ぶようなタイプなんだろう。これからは、彼の話題を避けるとしよう。
「とにかくこれでまた前科が増えたので、今日のトレーニングは倍に増やします。日曜で授業もないし、たっぷり時間はあるからね」
「却下!」
蓮は珍しく強い声で反論する。
その反応を見た渚は、冷笑を浮かべる。
「フハハハハハあなたたちが悪いのよ。あたしがいないところで楽しいことをやったんだからさ」
「いや、やってないんだけど……」
「つべこべ言わない! はい、やるよ!」
渚は聞く耳を持たずに、ラジカセのセッティングを始める。
私たちは、しぶしぶいつものように距離を取った。
***
哀たちが運動をしている光景を離れた場所から見ている人物たちがいた。
「ほんまに毎日、やってるんやなぁ」
べっ甲色の髪にヘアピンで前髪を留めている青年は、関西の訛りの混じった声で呟く。
「うちは朝から運動とか無理やわ」
同じくべっ甲色の髪をサイドで束ねている女性は、大きく息を吐きながら両手を広げる。
「でも、本当に仲が良いよね」
蒼黒色のボブヘアの清廉な女性が、朗らかに同調する。
「哀の顔があそこまで変わるのは、あの人たちの前だけだしね」
紫紺色の髪の純真そうな青年が笑う。
「奏多の前でも?」
彼らを先導した瑛一郎が、素朴に問う。
「うん。元々哀は、一歩引いた場所からみんなを見ているようなタイプだし、正月に集まる時も周囲の会話を聞きながら、黙々とおせちを食べてる」
奏多と呼ばれた青年が、苦笑しながら説明する。
「だからそれだけ、あの人たちには心許しているんだろうなって、外野から見てるとよくわかるよ」
「確かにね」清廉な女性が笑う。
彼らの反応を見た瑛一郎は満悦顔になり、「それでだ」と本題を切り出す。
「俺らも負けてらんねーだろ? だから俺らも、あいつらみたいに運動やろうぜ。俺、朝練あるから夜でも……」
「興味ねぇ」
「寝たい」
「めんどくさいかも」
「どうでもいい」
「おまえらな…………」
瑛一郎は、力なく呟いた。
Day2 完