運動を終え、朝食を取り終えた後は、授業開始までに身支度を整える。
寮生活ではあるが、授業を受ける際はもちろん制服に着替えなければいけない。
私は、自室のベッドに腰をかけて時計を見る。
今は午前七時三十分。あと一時間はある。
ふう、と息を吐きながら、ごろりとベッドに寝転がった。
「登校」というイベントが発生しないので、掃除当番でない時は、時間ギリギリまでのんびりできるところも寮生活のメリットだ。
朝早くに起床するようになってから授業まで余裕が生まれたので、最近ではこの時間に宿題をするようになった。
とはいうものの、今日は宿題がないのですることもない。
しばらくベッドの上で伸びていると着信音が響く。画面を見ると祐介からだ。
通話ボタンを押して、スマホを耳に当てる。
「あ、哀。さっき言ってた北海道のことだけど、多分、今週中にはホームルームで決めるだろ。忘れそうだし、掃除ないなら部屋行ってもいいか?」祐介は軽い調子で切り出す。
「うん。わざわざありがとう」
「全然。じゃ、五分後くらいに」
要件のみ伝えられて、ピッと切られる。
言葉通り五分後に、ドアがノックされた。
「おっす。ってまだ着替えてなかったのか。何か悪いな」
祐介は、頭を掻きながら室内に入る。
「いやいや、むしろ祐介は準備が早いね」
私はまだ部屋着のままだが、彼はすでに制服に着替えている。
人間性が露呈しているようで頬が熱くなった。
祐介は自室のように腰を下ろすと、脇に抱えていた複数の雑誌を床に広げる。
「何かたくさん本もらったんだよなぁ。こんなに使わないし、適当にもらってくれよ」
「わぁ、助かるよ」
私は床に広げられた雑誌に目をやる。どの表紙にも大きく『北海道』と書かれ、旅雑誌だと示している。お勧めの場所を示しているのか、ところどころ付箋が貼られていた。
「というか北海道の人なら、地元の旅雑誌なんて買わなくない?」
そう尋ねると、「あぁ、これは、別の奴らからもらったやつだな」とあっさりと答える。
「多分、京都の次に修学旅行先に選ばれることが多いんだろうな。プライベートでも行ってる奴多いし。先輩とか友だちの兄貴とかから適当に」
いや沖縄も多いか、と呟く祐介に「さ、さすがだね……」と私は反応する。彼の人脈の広さには、毎回目を丸くするものだ。
適当に雑誌を手に取る。海の幸や乳製品が特産と聞いているだけに、食欲をそそる写真がたくさん並んでいた。
「美子が見たら喜びそう」
「確かにな」祐介は嬉しそうに優しく笑った。
「あ、そうそう。自由行動の時、蓮と三人で少しだけ集まらないか? 美子と渚用に何か見ようぜ」
「もちろん」
そう答えた後に、「あ、でも班行動、抜けられるかな」と付け加える。
基本的に自由行動は、クラス内で決められた班の人たちと行動をしなければいけない、と言われていた。
しかし祐介は、顔色を変えることなく「別に大丈夫だろ」とあっさりと答える。
「俺のクラスでは、普通に彼女に会うやつとか、後輩にお土産買うのに集まるとか言ってる奴もいたしな。それにほら、昨年の研修旅行だって」
「そういえば」私は苦笑する。
昨年の研修旅行で水族館に訪れた際も、一応班行動であったにも関わらず、皆仲の良い人と回ったりしていたものだった。
気になる人と回る、というイベントも発生しただけに、中々観測が捗ったものだ。
「自由行動は小樽の方が時間が長いっけ。有名な店も多いし、こっちで集まるか」
「どれだけ買っても、余るってことはないしね」
「美子が全部食うからな」
祐介は再び愉快そうに笑った。
祐介の話す情報を元に、私たちはパラパラ雑誌をめくる。
「それにしても、美子ってたくさん食べるけど、全然太らないよね」
美子は、私たちが止めなければ無限に何かを食べ続ける。
しかし代謝が良いのだろう、身体に余分な栄養は回っておらず、Tシャツや短パンから伸びる四肢は健康的に細く、渚と隣に並んでも引けを取らないほどだ。
地元に帰った際、恐る恐る乗った体重計の数値を思い出したので、多少羨ましくもあった。
「だよな。さすがに目に見えて変化が出てきたら俺も止めるけど、別に身体も問題ないようだし、ま、そういう体質なんだろな」
大食いで細い人って多いだろ、と祐介は言う。
「でも、祐介はそんなに食べないよね」
「そうだなぁ。ま、仮に兄妹そろって大食いだったら、うちの両親悲鳴上げてただろうな」
祐介は、苦笑しながら両手を広げた。
「じゃ、また近くなったら決めようか。蓮にも言っといてくれよ」
それじゃ、と腰を上げた祐介に、「あ、あのさ」と慌てて声をかけた。
「さっき言ってた渚のネックレス……あれって、どういう意味なの?」
気になっていたことを尋ねた。
祐介は不意打ちを喰らって目を丸くするも、「あぁ」と口角を上げる。
「哀は結構そういう話好きだったな。まぁアクセサリーとなったら、やっぱそう思うか」
祐介は身体を反転すると、再び室内に腰を下ろした。私の脳内全て見透かされているようで言葉が出ない。
「渚が『リンくん』って呼んでるマネージャーがいるだろ。そいつがあのネックレスを渚に渡したらしい」
祐介は改めて説明する。私は背筋が伸びた。
男性が女性にアクセサリーを渡す、というイベントは、例え友人同士でも中々起こらない。
何より二人の関係は、友人ではなく仕事なんだ。
私の頭はぐるぐる回る。
マネージャーの位置であるだけ、現役高校生の渚より年上ではあるだろう。もしかしたら大人なのかもしれない、いや、渚の面倒が見られるだけにきっとそうだ。
自由に扱えるお金はあるはずだから、アクセサリーを買う余裕もあるのだろう。
私でも察するほどだから、大人ならば、アクセサリーを贈る意味は、少しくらいわかっているはず。
沈思黙考を続けていたが、「あ、何か期待させて悪いけど」と祐介のきまりの悪そうな声が耳に届く。
「何かの仕事でファッションビルに行ったらしいんだけど、パワーストーンの店の前を通った時に『幸運を呼ぶ宝石』という謳い文句に渚がつられたらしい。でもそのマネージャーはそれこそ『現実的なタイプ』で、小馬鹿にしたように笑ったとか。それから渚がネチネチ根に持つようになって、観念したマネージャーがご機嫌を取る為に買った、って」
「なんか、リアルだ……」
ロマンのかけらもない現実にげんなりした。
目に見えてわかるその光景に、むしろマネージャーさんに同情するものだ。
「現実の話だからなぁ」
祐介は軽い調子で同調した。
「でも、何でそんなことまで知ってるの?」
聞いても無駄だとわかってはいるが、社交辞令として尋ねる。
「何でだろうなぁ」
案の定祐介は、両手を頭の後ろで組んで、悦楽に浸った。
始業十分前を知らせるベルが鳴り、祐介はじゃ、と部屋を出る。
着替えていなかったことで、私も慌てて身支度を整えた。
***
四時間目の授業終了のベルが鳴る。それと共に、教室内から感嘆の息が漏れた。
昼休みは四十五分間ある為、食堂へ向かったり自室に戻って昼寝をしたり、と教室外で時間を過ごす者がほとんどだ。
私も食堂で食事をとり終えた後は、基本的に自室へと帰っていた。
五時間目の開始五分前のベルが鳴ると、皆重い足取りで教室へと戻ってくる。
私は、教室内の自分の席で顔を伏せている蓮の元まで向かう。日光の当たる窓側の席だからか、傍まで寄っても気付かない。
「蓮、起きてる?」
「…………起きて……ます……」
「寝てるよね」
条件反射のような彼の返答に苦笑する。
うちの学校だけかもしれないが、昼休みに自室に戻れる点も全寮制の良いところだった。
だが逆に、それだけのびのびと過ごすことができてしまう。お腹が膨れた昼下がりには眠気が襲い、昼休みに自室に帰った生徒が戻ってこない、という事例がよく見られた。
蓮はそれを防ぐために、あえて教室内で寝ているらしい。
真面目なのか不真面目なのかがわからない。
「祐介がさ、修学旅行の自由行動の時に少しだけ三人で集まろうって。渚と美子に何か買おうってさ」
そう言うと、蓮は重そうに頭を上げて髪を掻く。だらしない姿であるのにも関わらず、外見が良いだけキマッて見えるのが悔しい。
「あーうん、全然いいよ……」
蓮はボンヤリした返答をする。起きたてほやほや状態だ。
ラジオ体操だけでなく、運動もするようになったことで疲労が溜まっているのだろう。特に気候の良いこの時期のこの時間は眠気を促進させるので気持ちはわかる。
蓮につられるようにあくびが出た。
「おうおう眠そうだな」
唐突に、癖のある特徴的な声が耳に届く。
振り向くと、クラスメイトの柳 瑛一郎(ヤナギ エイイチロウ)が愉快そうに笑っていた。
さっぱりと散髪された黒褐色の髪に、カッタ—シャツの中には、スポーツブランドのTシャツを着用している。
裏の無い口ぶりと佇まいからも、さすがサッカー部に所属しているだけスポーツマンシップ溢れていた。
「おまえら最近、毎朝ラウンジで何か運動みたいなんしてるよな。それが原因か?」
「あ、知ってたんだ……」
まさか知られてるとは思わずに、妙に耳の裏がこそばゆくなった。
「ラウンジってガラス張りだろ。だから朝練の時に外から見えるんだ。三十分くらいやってね? あれ何やってんの?」
確かに今では、食堂の開く七時前までみっちり動くようになっていた。
「ラジオ体操とストレッチと、あとは色々運動で……ええっと、ジャンプして腕立てを繰り返すやつとか」
「バーピーか。あれは確かにしんどい」瑛一郎は同情するように笑う。
「でも、そんな本格的な運動もやってんだな」
「渚が元々やっていたらしい」
「渚ちゃんが?あぁまぁ、だからこそ、あんなにパワフルなんだな」
瑛一郎は、納得するように頷く。
「ほんと仲良いよなぁ。幼馴染みんな、寮に入るって」
「その言葉、そのまま瑛一郎に返すよ」
「まぁ、そう言われたらそうか」瑛一郎は肩を竦める。
彼も私たちと同じように、昔から付き合いのある友人が数人ここに入っている。
彼の幼馴染の一人が身内であるだけ、彼らの関係も把握しているのだった。
「『腐れ縁』ってやつなんかな。でも渚ちゃんなんて、モデルの仕事もやってんのにさ」
瑛一郎は慈愛に満ちた声で言う。
「芸能関連なら、『青星第一高等学校』の進路もあっただろうに。あそこ確か芸能人も通ってるところだろ。すげー倍率高いらしいけど、テレビ局や出版社との結びつきもあるって」
「渚は何よりも学校生活を優先するからね。それこそ渚は戦場に挑むような性格でもないし」
「そうだよな。ま、そのお陰で退屈はしない」
瑛一郎は軽やかに笑った。
「でもおまえら、終わった後しばらくソファの上で伸びてんだろ。あれちょっと心臓に悪いぜ。はじめこそ死んでんのかってびっくりしちまったからさ」
特にこいつとか微動だにしてなかったし、と瑛一郎は蓮の肩を叩く。蓮は露骨に嫌悪感を出して、瑛一郎を睨む。
確かに息を整えることに必死で全く動けなくなっているので、あながち間違っちゃいない。
「たかが数十分の運動で情けないな。それだけおまえら運動してなかったってことだな」
瑛一郎はカハハッと笑いながら胸をそらす。
彼は運動部なだけそう思われるのは仕方ないにしろ、嫌味だと伝わったので顔が曇る。
「瑛一郎もやってみたらわかるよ」
反撃の意味で言ったが、瑛一郎は「え、いいのか? だったら参加させてもらおうかな」と軽い調子で返答する。
「ちょうど明日、土曜だし朝練ないんだよな。何時からやってんの?」
「ろ、六時半だね」
「おっけ。その時間までにラウンジ向かうわ」
じゃ、と瑛一郎は軽く手を振って自分の席まで戻る。そのタイミングで先生が教室ドアを開けたことで、各々着席を始めた。
あまりにもあっさりした対応に、私と蓮はポカンと口を開けていた。
「さすが、運動部というか……」
スポーツマンなだけに、勝負魂に火がついたのか。
「また騒がしくなりそうだ」
蓮は面倒臭そうに、頭を掻いた。
***