ゴールデンウィーク明けから一週間が経ち、ラウンジでのラジオ体操も日課となりつつあった。
開始時刻は六時半なので、洗面の時間も含めて六時二十分には起床しなければならない。
授業開始が八時半の為、今までは七時四十五分に起床、そのまま朝食を取り、帰りに洗面所で顔を洗って身支度をする、という流れだった。
おかげ様で一時間半以上も早く起きる羽目になった。
とはいうものの、夏や冬のように気候のせいで起きるのがつらい、ということはなかった。むしろ穏やかな日和が続いていることで、朝早くに起床しないともったいない、という感情すら湧いている。
それは私だけが感じていることではなく、他の皆も同様のようだ。
だが、こんな日課も少し変わりつつあった。
本日もノルマを終えて、ラウンジで休息を取る。
皆、疲弊からソファの上に寝転がって息を整えていた。
「死にそう……」
蓮は、ヒューヒュー息を鳴らしながら呟く。
「登校しなくなっただけで、これだけ体力が落ちるもんなんだな」
祐介も、額に手を当てて苦笑する。
「足が張ってる……」
私は、太ももをさすりながら呟く。
最近はラジオ体操だけでなく、筋トレやストレッチも行うようになっていた。渚が体型を維持する為に、元々行っていたものらしい。
内容はスクワット中心に飛び跳ねるものが多く、短時間で心拍数が倍以上に上がる。
ここにいる皆、部活動に入っておらず、意識的に身体を動かす機会は体育だけだ。
普段運動をしないだけ、情けなくも運動後は屍のようになっていた。
「今日のごはん、何かなぁ〜」
美子が天井を見上げながら呟く。その手はソーセージパンの袋を破っている。
常にエネルギーを吸収しているからか、他の皆より体力の消耗が感じられない。
「美子は相変わらずだね」私は苦笑する。
「たくさん食べることは、良いことだぞ」
祐介は身体を起こすと、偉いぞ、と美子の頭を撫でる。
頭を撫でられた美子は、猫のようにゴロゴロ喉を鳴らす。
「食べることが大好きなんだ〜」
美子は幸せそうにパンを頬張る。この顔を見ると、何でも許してしまえそうになるから不思議なものだ。祐介の気が緩むのも理解できる。
「大変!大変!大変ー!!」
渚がバタバタ足音を鳴らしながら、こちらまで走ってくる。
さすがというべきか、常にハイカロリーなテンションを発散してる彼女からは、たかが数十分の運動ごときで疲労は感じないようだ。
静かだなぁと感じていたが、トイレにでも行っていたらしい。
「どうしたの?」
私は、特に動じずに振り向く。
彼女は、「突き指」を「骨折」と表現するほどに、物事を誇張する癖があった。
「何かむずむずするなぁって思ったらさ、見てここ!」
そう言って、渚は自身の顎を指差す。
渋々目を向けると、白い肌にポツリと赤くなっている箇所があった。
「小さいニキビぐらいで大げさな」
「大げさなんかじゃないよ! 明日撮影があるのにさぁ。絶対昨日、美子からもらったチョコレートのせいだ。あぁ、どうしようどうしよう……」
そう言って渚は、頭を抱えてウロウロし始める。
「美子のせいにしないでよ〜。渚が食べたいって言ったんじゃん?」
美子は、パンをもぐもぐ食べながら反論する。
「だって、一生に一度しか食べられない、なんて言われたら食べるしかないじゃん!」
「渚は昔から、限定ものに弱いよな」
祐介は、軽い調子で口を挟む。
渚は、「舐めないでくれる?」と裕介を睨む。
「あたしはこう見えても現実的なタイプだよ。限定商品は後から再販されるものが多いし、閉店セールをする店は閉店しないって気づいてる」
だからあたしはそんな謳い文句に騙されない、と渚は身も蓋もない反論をする。
十秒前に自分で言った言葉を忘れたのか、全く説得力が感じられない。
「現実的なタイプねぇ……」
祐介は、意味深に口角を上げる。「現実的なタイプは、パワーストーンは信じない」
不意打ちの言葉に、渚はキョトンとした顔で自身の胸元に視線を向ける。
彼女の首には、カラーストーンのついたネックレスが付けられていた。
「これは、リンくんがくれたものだよ」
「でも、欲しいと言ったのはおまえなんだろ」
ごく当然のように返された言葉に、渚は怪訝な顔で祐介を睨む。
「というか、何でそんなこと知ってるのよ」
「何でかなぁ」祐介は愉快気にあしらう。
余裕のある彼の態度に、渚はやり場のない感情から地団駄を踏んだ。
祐介の情報網はとてつもなく広い。老若男女問わず平等に接する対人スキルがあっての成果だろう。
しかし逆に、彼に情報が漏洩しすぎて恐ろしく感じる時もある。
敵に回したくないタイプだ。特に美子絡みになると数倍面倒くさくなる。
今回も、美子のチョコが原因と責められたことで、少なからず反撃の意図が感じられた。
ネックレスの詳細が気になるものの、私は先ほどから声の聞こえない彼を見る。
体力の消耗を睡眠で回復しようとしているのか、蓮は目を完全に閉じて眠っていた。いや、もしかしたら気絶しているのかもしれないが、騒がしいのに動じないところから、この場に意識がないとは感じられる。
「あぁ~とにかく、今はにくっきこいつをやっつけないといけないわ! みんなは授業、頑張ってね」
渚はじゃ、と至極当然に振舞うので、私の顔は曇る。
「学業が一番大事なんじゃなかったの」
「授業どころじゃないよ! これは一大事なんだから」
そう言うと、渚はバタバタと足を鳴らして、部屋へと戻った。
見られる仕事なだけに気持ちはわかるものの、言動が極端すぎる。
「本当、朝から騒がしいやつだな」
祐介は、やれやれと首を掻く。
「ほんと、おめでたい人だよね〜」
美子は、ふわふわと毒を吐く。
「美子、それちょっと意味が違う」
七時となったことで、蓮を起こして食堂へと向かった。
***
基本的に、食堂の開く朝七時から夜の九時までは、寮の生徒なら誰でも利用できる。
各自の生活スタイルによって、食堂の利用は任意だ。だが寮費に食費も含まれているので、食堂を利用する方が良心的ではあった。
開店してすぐに朝食を取る人は数人で、食器音が静かに響くほどに閑散としていた。
今までは八時頃に訪れていたことで、私みたいにギリギリまで寝たい人や朝練を終えた人たちで騒がしかっただけに特別な空間に感じる。
早朝の運動が日課となってから見えた、少し色の変わった光景だ。
トレイを手に取ると、食堂のおばちゃんに挨拶をして朝食を受け取る。
本日のメニューは、食パンの上に目玉焼き、ベーコンの乗ったトーストに、ソーセージ、サラダ、コーンスープ、そしてイチゴとバナナのフルーツ盛り合わせ。
栄養バランスのとれたメニューだ。
「わぁ〜今日はベーコンエッグトーストだ!」美子が感嘆の声を漏らす。
「これおいしいんだよね〜。渚食べないなら、渚の分までもらっちゃお」
そう言うと、美子はくるりと身体を反転させて、おばちゃんの元まで向かう。
私たちは適当な席に腰を下ろすと、朝食に手をつけ始める。
表面が香ばしい色に変わるほどにこんがり焼かれたトーストを手に取る。齧りつくとカリッと軽やかな音が鳴った。
口の中でトーストと卵とベーコンが混ざり合い、素材のハーモニーを堪能する。
目玉焼きは半熟でとろりと黄身がパン上を滑る。ベーコンはカリカリに焼かれ、噛み締めると塩味の効いた中に甘さを感じた。
味付けはマヨネーズと胡椒のみとシンプルなものだが、素材の味が生きていることから寮の生徒には人気のメニューなのだ。
「修学旅行もう来月か。自由行動、どこ行くか決めたか?」
祐介がソーセージに齧りつきながら切り出す。
高校ニ年生の私と祐介と蓮は、来月修学旅行で二泊三日、北海道に行くことになっていた。
ちなみに蓮とはクラスが同じで、自由行動の班も同じだった。
「班の人が乗り気だから、任せちゃおうかなって」
私は頭を掻きながら答える。蓮も半分目が閉じた状態で頷く。
私たちの気の抜けた反応を見て、祐介は苦笑する。
「何か寮生活だからか、修学旅行って言われても、そこまで気分が上がらないよなぁ」
「そうなんだよね」
衣食住共にしている為、外泊の感動が薄れていた。
とはいうものの北海道はともかく、飛行機にすら乗ったことがないので、心待ちにしてはいた。
「祐介の情報網の中に、北海道に詳しい人はいないの?」
半分冗談で尋ねたものの、祐介は顎に手を当て「実はそれがさ」と話し始める。
「この学校の近くに『アカハラ』ってスーパーがあるだろ」
「激安で有名なところだ」
私は脳内で思い浮かべる。一応一人暮らしと呼べる環境なだけに、近所の激安店はチェックしていた。
「そうそう。そこに俺らと同年齢くらいのバイトがいるんだけど、何の偶然かそいつが北海道出身らしくて、実は色々話を聞いていたんだ」
祐介は当然のように答える。私は強張った顔で彼を見る。
「店員さんとプライベートな話ができる祐介の社交スキル、ほんとすごいね……」
「まぁ俺がすごいっていうよりかは、その店員がおしゃべりだっただけだけどな」
祐介は両手を広げて言う。この相手に嫌みを与えずあっさりへりくだるところが、彼の特性をより一層強みにしたのだろう。
「その情報、私たちにも共有してよ」
「もちろん。何か色々聞いたから後で教えるわ」祐介は軽く頷いた。
「そっかぁ〜。もうすぐ北海道行っちゃうのかぁ」
美子は、私たちの元まで戻りながら呟く。
無事渚の分も貰えたようで、手にはベーコンエッグトーストの乗ったお皿が握られていた。
「お兄ちゃんと三日間も会えないの、寂しい」
美子は、唇を突き出して祐介を見る。
「俺も寂しいよ」
祐介は美子の頭を撫でながら彼女を宥める。
「たくさんお土産、買ってくるから」
「わぁい! 楽しみにしてる!」
美子は機嫌を取り戻して、祐介の腕に抱きついた。
私と蓮は、二人のやりとりを聞き流しながら黙々と朝食を取る。
祐介は鳶色の髪に大きな猫目で、常にあらゆることを把握している余裕のある態度だが、美子は胡桃色の髪に丸い瞳、常に何も考えていなさそうなふわふわした態度、と雰囲気がまるで違う。
ぱっと見で兄妹に見えないだけに、たまにカップルでないかと錯覚しそうになる。実際「あの二人は恋人?」と何度も尋ねられている。
スキンシップが多く、かなり近い距離感であるものの、これも見慣れた光景だった。
朝食が済み、食器を返却したところで、バタバタバタバタッと慌ただしい音が響く。
いちいち振り向かなくてもわかる。このうるさい足音は、絶対彼女だ。
「勝利!!」
渚は私たちに気付くと、力強くガッツポーズを見せる。
戦いを終えた代償に、彼女の顎部分は大袈裟にガーゼで覆われていた。
こういった姿を公の場に恥ずかしげもなく晒すので、本当にモデルなのかと疑いそうになる。
「よかったねぇ」
私たちは、子どもをあやすような声で反応する。
それが伝わったのか、渚は不満そうに唇を突き出した。
「渚、明日仕事なんだっけ?」
渚に気付いた食堂内にいた男の子が声をかける。砕けた口調からも、彼女と同じ一年生なのだろう。
「うん! その為に今、戦いを終えたところなんだ!」
いきなり意味のわからない言葉が飛び出たにも関わらず、顎に当てられたガーゼを見た男の子は、軽く笑って聞き流す。
「よくわからんが、明日までに治るといいな。仕事、頑張れよ」
「おうよ! ありがとう」
渚は手を振って笑顔で対応した。
渚がこの学校に転校してきた時は、最初こそ話題になったものの、今ではすっかり馴染んでいた。一応芸能界の人間だが、今では彼女を特別扱いする人はほぼいない。
「芸能人」という壁を感じさせないところが、ある意味彼女の強みだとも言える。
渚は『本日のメニュー』と記載された看板を見て「あっ今日ベーコンエッグトーストじゃん!」と声を上げた。
「これ好きなんだよね~。それに戦の後だからお腹ペコペコなんだ」
渚は上機嫌にトレーを取る。
だが、おばちゃんと数回会話をした後、表情を一変させてこちらを見る。
「ちょっと美子! 何、勝手にあたしの分まで食べてんのよ!」
渚は険しい顔で美子に近づく。
物凄い剣幕で睨まれているにも関わらず、美子は全く気にする素振りがない。
「だって渚、今日は授業出ないって言ったでしょ。だからごはんもいらないのかなぁって」
「たとえ授業に出なくてもごはんは食べるよ! 人間が生きる為に、食事は必須項目なんだから」
「そう言われてもね~もう食べちゃったし」
そう言って美子は、自身のお腹を満足そうに擦る。
基本的に美子の行動からは、悪意が全く感じられない。
それだけに渚は感情のやり場が掴めなくなり、着ているTシャツをギューッと握りしめた。
「大丈夫大丈夫。余裕に作ってるから、渚ちゃんの分はあるよ」
渚に見かねたのか、食堂のおばちゃんが優しく笑って対応する。
「あ、あ、ありがとう~~」
渚は目を潤ませると、おばちゃんの元へと歩み寄った。
「帰っとくぞ」
祐介は、小さく息を吐きながら軽く手を振る。他の皆も彼に続いて食堂を後にする。
背後から「薄情者!」と声が響くも、特に振り返ることなく自室へと戻った。
***