「数学で意味を考えたら、ややこしくなるだけだから」
蓮は教科書を眺めながら、大きくあくびをする。
「渚は仕事もあるから仕方ないよ~がんばれぇ~」
美子は他人事のように言う。その手には「クリームパン」と書かれた袋が見られ、口ももごもご動いてる。
美子の言葉を聞いた祐介は、視線を彼女に向ける。
「美子、おまえもだぞ。中間テストの点数、覚えてないのか」
「大丈夫、大丈夫。担任の先生は結構甘いし、何とかなるよ~」
「だめだ」
そう言うと、祐介は美子が手に持つクリームパンを取り上げた。
普段とは違う厳しい彼の態度に皆、目を丸くする。美子も呆気に取られていた。
「これはおまえの為でもあるんだぞ。この範囲が終わるまでお預け。ほら、早くノートを開け」
祐介がそう言った瞬間、美子の目はウルウルと潤み始める。
「お兄ちゃんなんて大嫌い!」
美子は勢いよく立ち上がると、そのまま部屋を飛び出した。
私たちは唖然としていた。
「……俺、何か間違ったこと言ったか…………?」
祐介は顔を強張らせながら尋ねる。私たちは全員、首を横に振った。
「でも美子って、そこまで勉強できなかったっけ?」渚は問う。
「あいつ中間の時、数学で二点取ったんだよな。さすがに笑えねーだろ」
「二点……」思わず失笑する。
「全く、しょうがないやつだな。ちょっと連れて来るわ」
祐介は頭を掻きながら立ち上がると、颯爽と部屋を出ていった。
「お兄ちゃんは大変だ」
蓮は感情の籠っていない声で呟く。
「美子のお兄ちゃんっ子は昔からだけどさ」
渚はお気楽な調子で言う。「まぁでも、もう高校生だしねぇ~。そろそろ自立し始めないと」
私たちがこの学校に来たのは、祐介と美子が寮に入ったことがきっかけだった。
二人の両親が仕事の都合で地元を離れることになり、親についていくか寮に入るかのどちらかを強いられ、祐介は寮に入ることを選択したと言う。その為、彼は美子の兄であり、親代わりでもあるのだ。
それもあって人脈を広げて情報源を増やし、美子が安心して歩ける道を開いていたのかもしれない。
だが逆に、彼の優しさに美子は甘えてしまっていたんだ。
私たちはそのまま各自テスト勉強をしたり、渚に教えたりしていた。
だが、しばらく経っても二人は帰ってこなかった。
「遅くない?」
渚は壁にかかった時計を見る。
「そ、そうだね……」
私もつられて確認する。確かにもう三十分ほど経っている。
「見つからないのかな」
蓮はそう呟くと、小さく溜息を吐きながら立ち上がった。
「蓮?」
「みんなで探した方が早いだろ。美子、小さい隙間でも隠れる習性があるし」
蓮は、小動物の生態を語るように淡々と言う。
「確かに。美子、かくれんぼ得意だったからね」
渚はそう言うと、勢いよくペンを机に置いた。正当な理由で勉強から逃れられることにご機嫌なようだ。
「そうだね。時間もなくなっちゃうし」
二人を探す為に部屋を出たが、そこで目を見張った。
「ほらなおくん。お兄ちゃんからあのパン取り返して!」
「ちょっと待って美子ちゃん! いきなり何さ?」
ラウンジ内に、美子、祐介、直樹の三人の姿があった。
美子は直樹の背後に隠れ、前方を指差して直樹に指示を出している。指の差された先には、引き攣った顔の祐介が立っていた。
歩いている時に、いきなり兄妹喧嘩に巻き込まれたのだろう。
二人の間に立たされている憐れなチャラ男は、全く状況が読めていないようだ。
「直くんって、掴まりやすいよね」
渚は同情の混じる声で言う。大富豪の時を思い出しているのだろう。
「基本的にフラフラしてるからな」蓮は軽く同調する。
「でも、あの状況にはちょっと直樹に同情するかも」
「それね」渚は笑う。
直樹にとったら、後ろを向けば想い人、前を向けば苦手な人、とまさに天国と地獄の図となっている。
だが失礼ながらも、傍から見ている者にとったら、この上ないおもしろい状況だ。
私たちは壁に隠れて、三人を観測し始める。
「美子、こんなやつを盾にしても意味ないぞ」
祐介は、露骨に嫌悪感を滲ませている。
ただでさえ妹の教育中だというのに、目前に嫌いな人間が出てきたことで、さらに機嫌が悪いのだろう。
祐介の言葉にカチンときたのか、直樹は鋭い視線を彼に向ける。
「美子ちゃん、引いてるじゃん。ちょっと厳しすぎんじゃねーの」
「おまえには関係ねーだろ。身内の問題に口出すな」
「俺、巻き込んどいてそれはなくない?」
「そいつが勝手に引き込んだだけだから」
「なおくん!」
美子は直樹の背中を押す。いきなりのボディタッチに心なし直樹の顔が紅潮する。
その顔を見た祐介は、より一層眉間に皺を寄せる。
「祐介があれだけ怒るの、珍しいね」
渚は、珍しく声をひそめて呟く。
「怒る、というよりかは、呆れているようにも見えるな」
蓮は冷静に分析する。
私だけでなく、意外と二人もこの状況を楽しんでいるようだ。
しばらく三人は無言で向かい合っていたが、やがて祐介が大きく溜息を吐いた。
「美子、いい加減にしろ。このままだと夏休み帰省した時に母さんらに叱られるぞ。そうすれば夏休みだって潰れてしまう。今、頑張ればいいだけなんだ」
祐介は冷静に説得する。兄の優しさが籠った暖かい声色だった。
美子は、いまだ直樹の背後から動かない。
彼女もそこまで馬鹿ではない。本人も勉強しなければいけないことはわかっているが、引くに引けない状況になってしまったんだろう。意地を張っているだけなんだ。
やっと状況が読めたのか、直樹はしばらく考え込むと、静かに後ろに振り返る。美子は驚いた顔で直樹を見る。
「美子ちゃん、夏休みが勉強で潰れたくないだろ。だから今だけ頑張ろ?」
「でも……」
「じゃ~ほら、次のテストで平均点以上取ったら、ご褒美に俺がうまいもん驕ってあげる」
「おまえなぁ」祐介はすかさず突っ込む。
美子を宥めながらも、ちゃっかり二人での予定を取りつける直樹の下心を見抜いたのだろう。
案の定、直樹は悪びれることなく舌を出す。
しかし美子は、直樹の言葉に表情を反転させて目を輝かせた。
「本当!?」
「美子ちゃん?」直樹は目を丸くする。
「なおくん言ったからね! 美子頑張るから、美味しいものご馳走してね!」
そう言うと、美子は直樹の背中から飛び出し、スタタタタタタッと私の部屋まで走っていった。
その後に残された直樹と祐介は、しばらく呆気に取られていた。
「美子らしいというか……」渚は大袈裟に額を抑える。
やはり美子は意地を張っていた。現状を変えるきっかけが欲しかったからこそ、直樹の言葉にもすぐに飛びついたんだ。だから恐らく、内容は何でもよかったのだろう。
だが、少しだけ直樹に同情した。
「よりによって、ごはんを驕るっていうのはね~……」私は呟く。
「あいつの懐具合が心配になるな」蓮は首を掻きながら息を吐く。
しばらく静止していた二人も、やっと頭がついてきたようで首を掻いた。
「ま、ま~今回は俺に感謝しとけって」
直樹は軽く言って祐介の肩を叩く。
自分の言葉で兄妹喧嘩を収めたこと、さらに好きな女の子と約束を取りつけられたことにご機嫌なようだ。
だが祐介は、逆に直樹に憐憫の情を抱く。
「おまえ、言っちまったな」
「え?」
「あいつは食べ物のこととなったら、成果は出すんだ」
せいぜい財布の心配しとくんだな、と祐介は楽しそうに笑う。
彼の余裕な態度に、直樹は「どういう意味だ?」と素朴に尋ねた。
「直くんって、何かかわいそうな人だね……」
渚はポツリと呟いた。
その後、美子がテストで平均点以上を取ったことは、語るまでもなかった。
Day4 完