「今日のトレーニングも休んでたんか？」
瑛一郎は素朴に尋ねる。
「ど、どうだろう……私も今日行けてなくて…………」
そう答えると、瑛一郎は露骨に顔を歪める。
「オイオイまさかやめたとかじゃねーだろうな。もうすぐリベンジ戦が始まるっていうのによ！」
「ちっ違う！ 今日は私、朝調子が悪くて…………でも、ちゃんと続いているから」
私は大袈裟に手を振って弁解した。
瑛一郎は不服そうに唇を突き出して「監視、何してるんだ」とぼやく。
「き、きっと蓮も、私と同じで体調が悪いんだよ……」
私は適当なことを言う。
「ま、確かにここ最近、台風とかで気圧がすげえもんなぁ。って女子かよ」
瑛一郎は一人で会話しながら、自分の席へと向かった。
瑛一郎だから何とか誤魔化せたものの、私は嘘を吐くのが下手だ。
だが、周囲を巻き込んで、これ以上環境が変化するのだけは避けたかった。
自分の気持ちの整理がつき、蓮と再び向かい合えるようになるまでは、何とか平静を保たなければ。
＊＊＊
授業を終えると、真っ直ぐ自室へと向かった。
その日は食堂を利用せず、あえて外のコンビニで食品を購入した。
今日は蓮が休みだったからまだよかったが、冷静になれるまでは誰とも顔を合わせたくない。
こんな時に周囲にクラスメイトのいる環境はやりずらい。
初めて全寮制って不便だな、と思った。
「哀」
突如、落ち着いた声が響く。
顔を上げると、祐介が立っていた。
「体調まだ悪いのか？朝も食堂も来なかっただろ。それに蓮も休んでたし……」
「あ、やっぱり蓮も来なかったんだ」
「やっぱり？」
「今日、学校も休んでいたから……」
「蓮が授業休むなんて珍しいな。一体おまえら、どうしたんだよ」
祐介は眉を寄せて尋ねる。
彼の壁を感じさせない落ち着いた振る舞いも、今はとても安心感を抱けるものだった。
感情を堪える為に、顔が強張る。
だがそんな僅かな変化も、幼馴染である彼は見逃さなかった。
「…………蓮と、何があったんだ？」
祐介は訝し気な声で問う。
私はしばらく黙り込むが、小さく息を吐いて腹を括った。
「ごめん、ちょっと時間いい…………？」
「もちろん。哀の部屋でもいいか？」
祐介はあっさりと答える。私は頷く。
そのまま私の部屋へと向かった。
＊＊＊
「で、どうしたんだ？」
祐介は室内に入ると、自室のように腰を下ろしながら問う。普段と変わらない彼にどこか安堵した。
私は意を決して口を開く。
「男の子ってさ…………好きでもない女の子と、平気でキスできるもの？」
「ぶはっ」
祐介は漫画みたいにむせ返る。
普段動揺しない彼だからこそ、そんな反応が新鮮で目を丸くする。
「珍しい……」
「珍しいじゃねぇよ。哀のせいだろ」
祐介は咳払いしながら弁解する。
「真剣な顔で何言うかと思ったら何だよそれ。まさか蓮に…………」
そこで祐介は表情を変える。私も思わず顔が強張った。
その反応見て、祐介は「え、まじで？」と目をぱちぱちさせる。
「あいつが？ 本当に？」
祐介は動揺を隠さぬまま尋ねる。幼馴染であり、さらに情報通であるからこそ信じたくない、といった懐疑の念が感じられた。
だが、実際あったことだ。
「前に蓮が気になることを言ったんだ。その言葉の意味が知りたくて蓮の部屋に行ったんだけど……男の部屋に簡単に入るのは無防備だって言って、いきなり…………」
思わず唇に触れていた。
キスをしたのは初めてだった。
それこそ、少女漫画やドラマで見るキスシーンは、涙が零れるほどに幸せで愛しくて切ないものなんだと感じていた。いつまでも近くにいたい、もっと触れたい、という感情が付随するものなんだと思っていた。
だが、実際はそうじゃなかった。
恐怖で涙が溢れそうだった。
今すぐ離れたかった。
彼の体温を思い出すたびに背筋が凍った。
私が今まで思い描いていた感情とは、かけ離れた現実だった。
祐介は、情報量の多い脳内を回転させているのか、しばらく黙った後に口を開く。
「あいつの考えることは昔からわからねぇけど、幼馴染だからって八つ当たりしていいわけねぇよな」
「八つ当たりなの？」
「多分そうだろ。自分だけが悩んでいるのが悔しくて、他人を引き摺り下ろしたいって思う感情は、誰だって持っているものだし」
祐介はあっさりと説明する。
確かに彼の言う通り、修学旅行中、私が悩んでいた時に、何も考えてたなさそうな蓮を見て「雨が降れ」だなんて思っていた。
私だけじゃなく、蓮も同じだったというのだろうか。
それにしても、悩んでいたとは何のことだろうか。祐介は一体、何について……
「さすがに蓮がそういう人間じゃないとは思っているけど、哀が嘘言っているようにも思わないしさ」
「祐介……」
「でもまぁ一人、哀の知りたい感情に熟知している奴がいるだろ」
祐介は指を立てて言う。「好きな女がいるのにも関わらず、女癖の悪い人間が」
「あ」
「俺は哀の味方だが、悪いがそいつ当たるなら一人で頼むよ」
「徹底しているよね」思わず笑みが零れる。
「もはやこれは、脊髄反射だな」
祐介は肩を竦めて言った。
＊＊＊
「で、だから俺に話を聞きたいって？」
直樹は引き攣った顔で答える。
「だって、まさに直樹ってそうじゃん」
私は特に隠すこともなく言葉を吐く。「本命がいるのに、女の子が好きなところが」
「失礼な話だよね。俺は少し人より友人に女の子が多いだけだよ」
「本当にそう思ってる？」
「どうだろう」
直樹はひらひらと手を振ってあしらう。
会話が得意なだけに、回りくどい言い方をしたところで軽く躱されるだけだ。
私は祐介と話した後、直樹に連絡を入れていた。
奏多を通じて会うことはあったものの、二人で会う機会は中々無い。
何度も顔を合わせてほぼ幼馴染に近い関係であるにも関わらず、妙に身構えてしまった。
祐介に釘を差され、彼の部屋にだけは訪れないようにした。
そんなことあるわけないとは思いつつも、蓮のことがあっただけに素直に応じる。
案の定、連絡すると軽い調子で直樹は時間を作ってくれた。
今、私と直樹は、ラウンジで話している。
「まぁでも言ってしまえば多分、そうやろうなぁ」
直樹はべっ甲色の髪を弄りながら答える。
「基本的に男は変態だし、全然好きじゃない子でもそういったことはできる。感情とそれは別物って思ってる奴は少なからずいる」
今も危ないかもよ、と直樹は揶揄うように言う。彼の場合、冗談にならないから苦笑する。
祐介の言う通りに、ラウンジで会うことにしてよかったものだ。
「前に奏多が男は結構汚いって言ってたんだ。多分、身近にそんな存在がいるからそう言ったんだよね」
「誰のことやろ」直樹は軽くあしらう。
「でもさ、よく考えてみてくれよ」
直樹は待てよと言わんばかりに指を立てる。
「男は新規保存、女は上書き保存と言うだろ。男は大抵、本命と遊びをわけて考えている。つまりいくら遊びと遊んだところで所詮遊び。本命に変わることなんてほとんどない」
「直樹が美子を遊びにできないのはそれ？」
「それ」
直樹はやりずらそうに顔を歪めながら答える。もはやここまできたら開き直ったようにも見える。
「でも女は違う。良い奴がいたら本命から乗り換えてしまうんだ。そして乗り換えた後は、元本命のことなんて忘れてしまう。だからある意味、一途なのは男の方なんだよ」と直樹は独自の偏見で語る。
「男の人は、そういうことができてしまうんだ……」
直樹の言葉に少し気を落とした。
こんな言い方をしたらあれだが、蓮は直樹のような感情を持ち合わせていない、とどこが期待していた。
彼の行動からは、私の描いていた感情は全く感じられなかった。
蓮にとったら忠告のつもりだったのかもしれない。
それでも私にキスをしたのは、彼にとったら何の感情も生まれない行動だったんだ。
「ま、そういうわけでお互い様なんだよ。どっちが酷いかなんて争うだけ無駄ってトコ」
直樹は開き直ったように言う。
「じゃあ直樹にとっての本命の感情が、もしかしたら変わるかもしれないって期待しているんだ」
彼の理屈を借りて言葉を発する。
目的は達成できたので、せめて話題を逸らしたかった。
「ないとは言わないけど、でもほぼないだろな。だって祐介がいるし」
直樹は頭を掻きながら大きく息を吐く。
「でも、二人は兄妹なんだからさ……」
今の直樹の態度は見るからに自棄になっていた。どうしたってこの関係は変わらないんだと伝わる。それだけ祐介という存在に引っかかっているように感じられた。
確かに美子は兄を溺愛しているし、祐介もまた妹のことを大切に思っている。
とは言うもののそれだけ恋愛において、身内の存在が引っかかるものなのだろうか。
私の言葉を聞いた直樹は、目を見開いた。
「哀ちゃん、知らなかったのか」
「何のこと？」
「だって祐介と美子ちゃん」
直樹は顔を強張らせて口を開く。「血、繋がってないじゃん」
突如、バラバラバラッと何かが散乱する音が鳴る。
ハッとして振り向くと、そこには渚と美子の姿があった。
渚も美子も、目を丸くして静止している。
「美、美子ちゃん…………？」
直樹は心底驚いた顔をして呟く。
「なおくん…………今のどういう意味………………？」
美子は虚ろな目で立ち尽くしている。所持している袋から零れたのか、辺りにカラフルなチョコレート菓子が散乱している。
直樹はやりづらそうに顔を逸らす。
何も言わない彼に耐えられなくなったのか、美子はその場から走りだした。
「ちょ、ちょっと待って！」
直樹は慌てて美子の後を追った。
「あ、あたしたち……哀と蓮の二人の様子が変だなーと、様子を見に行こうとしてて…………お菓子も持って、さ……でも、え、今のどういうこと？」
渚は顔を引き攣らせながら慌ただしく問う。
「わ、私もわからない…………」
正直、私も頭がついていけていない。
祐介と美子は実の兄妹じゃない？
そんな重大なこと、私たち幼馴染は今の今まで知らなかったというのか。
「今はまず、美子だよ！」
ほら狭いところでも隠れる習性があるし、と渚は慌てて走り出す。
私も頭がついていかないまま、彼女の後を追った。
＊＊＊
私と渚は、まっすぐ祐介の部屋へと向かった。
美子が今、一緒にいたいのは兄のはずだ。
階段の上から「お兄ちゃん！」と叫ぶ美子の声が聞こえる。
私と渚は顔を見合わせて、急いで階段を上がる。
昇り終えると、美子の姿が目に入った。
「美子――――」
「おまえ――――ふざけんなよ！」
突如、バシッと鈍くて重い音が響く。
遅れて美子の小さな悲鳴と、何かが大きく倒れる音が響いた。
慌てて駆け寄ると、耳を塞いで目を瞑る美子、床に腰をついて頬を擦っている直樹、そして息を荒げている祐介が目に入った。
祐介が直樹を殴ったとは、ひと目でわかった。
「ちょっと、祐介！」
渚は、再び掴みかかろうとする祐介を慌てて止めに入るが、彼はその手を払い退ける。
「言ったよな？ 俺から説明するからおまえは言うなって！ 何度も何度も言ったよな？」
「直接言うてない！ 偶然、俺らが話してんのを美子ちゃんが聞いてただけや！ まさか今でも言うてへんとか思わんやろ」
直樹は関西の訛りを隠すことなく弁解する。
だが祐介に殴られたことで彼も苛立っているのだろう、火花がバチバチと散っていた。
祐介の態度からも、先ほど直樹の言った言葉が真実だと伝わった。
美子はその場に力なく座り込み、手で目を擦って泣いている。
渚も、祐介に手を払われたことがショックだったのか、ポカンと口を開けている。
二人から感じる殺気からも、女の私たちでは介入することができなかった。
「おまえら何やってんだよ！」
突如、クセのある通る声が響く。
瑛一郎は慌ててこの場に駆けつけると、二人の間に割り入った。
はっとして周囲を見回す。寮の廊下であるこの場で激しい物音がしたからか、部屋内に籠っていた生徒も野次馬のように戸を開けて様子を窺う。
互いにしか眼中になかった祐介と直樹の視界に、突然瑛一郎が映ったことで、二人とも反射的に静止する。
「拳で会話っていうのは男だったら誰だってあることだけどな、いくら何でも女子の前でそれやるのはやめろよ。美子ちゃん泣いてんだろ」
瑛一郎は、はっきりと口にする。
彼から美子の名前が飛び出たことで、二人とも正気を取り戻した。
「み、美子…………」
祐介は美子に近づこうとするも、彼女はひっと小さく声を上げて後ずさる。
「だめだめ。今のおまえは恐い。つーことでおまえら、ひとまず俺の部屋に来い」
瑛一郎はいつもの調子で二人の肩を叩く。それから私に目で合図をする。
彼の気遣いに小さく感謝すると、呆然と立ち尽くす渚と、床で膝をついて泣く美子を連れてこの場から離れた。
渚も美子も一年生なんだ。私がしっかりしなければだめだ。
美子はいまだ、声をしゃくり上げて泣いていた。
そんな彼女の背中を擦る手が、見るからに震えていた。
「な、何なの……さっきの祐介…………あれは、祐介なの…………？」
渚はぶつぶつ呟いている。彼女と同じく私も目を疑っていた。
あれほどにまで余裕のない祐介の姿を見るのは初めてだった。
情報通であるが故に、基本的にデータに基づいて行動する祐介は常に余裕で、私たちをまとめる中心的で、頼りにできる存在だったんだ。
皆の知らない一面を知っただけで、これだけ恐怖を感じてしまうものなのか。
多分、恐らく、それは。
長い間一緒にいたからこそ訪れる恐怖なんだろうと感じた。
そしてその感情は、
こんなにも容易く、地盤を崩してしまうものなんだ。
Day６ 完