次の日の朝。朝食を済まし、身支度を終えると、昨日購入したマスクを手に取った。三十枚入りのため、箱は一ヶ月は使用する。その為、新しい箱を開ける際は、妙に慎重になるものだ。
鏡を見ながらマスクをつける。私は周囲の人よりも髪や目の色素が薄く、鮮やかなカラーが慣れずに、浮いているようにも見えた。今まではくすみカラーなど大人しいものを選んでいたので、挑戦的な色だったかもしれない。
だが、普段よりも明るくも見えた。暁の陽気を分けてもらえたような気分になり、面はゆい思いだった。
「今回は、オレンジ色のマスクにしたのね」
家を出る際に、母にマスクについて触れられる。色気づいたと指摘されているようで、照れくさくなった。
そんな私に気づいた母は、「制服とも合ってていいじゃない」と笑ってくれた。私はいってきますと手をあげると、外へ出た。
***
学校へ向かった。いつもと変わらない景色。なじみのある風景。忙しなく動く世界だが、普段と違うマスクをつけているだけで新鮮な気分だった。
突如、私の前ギリギリをバイクが猛スピードで通りすぎていく。もう一歩踏み出していると、衝突するところだった。
私も舞い上がっていたことで不注意だったのかもしれないが、信号は青に変わっていたので、こちらは悪くない。それなのにバイクの運転手は、こちらにひと目もよこさず、スピードを緩めることもなく、走り去っていった。
朝なので急いでいる人も多いのだろうとはわかるが、こちらを気づかう様子のない相手に、頬を膨らませた。
「あ、危ないな!」
気づけば、そう口にしていた。
「そうだよ、今のは危ないよな。嬢ちゃん、大丈夫か?」
私の言葉が聞こえたのか、隣にいたおじさんが、ウンウン頷きながら言った。
そこで首をかしげた。あれ、今のは、私の口から出た言葉だろうか。
おじさんに軽く頭を下げ、首を傾げながら、再び学校へと歩き出した。
***
教室の扉を開く。私は基本、後方のドアから入っていた。前から入ると、皆と視線が合い、私だと知ると目を逸らされるのが勝手に傷つくからだ。後ろから入れば、視線が合うこともない。後方でも、こちらを振り向く人もいるが、すぐに自分の時間へ戻る。私なのか、と落胆させて申し訳ない気持ちになる。
時計の針は七時五十分を差していた。登校時間終了までまだ四十分はある。バイクの一件があったものの、普段通りの時間に着いた。教室内は数人いるだけで、各々個人の時間を過ごしてる。もちろん私の席までの通路は人で塞がれておらず、ほっと胸をなでおろした。
難なく自分の席に辿り着き、腰を下ろす。昨日図書館で借りた本も持参した。中学時代に話題になり、映画化もされた文芸書『青い夏』だ。さすがに旅行雑誌は恥ずかしいので自宅へ置いてきた。
本を開くと、私も自分の時間へと入った。
ポツポツ登校する人が増え、教室内は次第に騒がしくなる。ガラッと大きく扉が開き「はよ~」と活発な声が届いた瞬間、反射的に背筋が伸びた。暁が来たようだ。
無意識に暁を一瞥し、マスクに触れる。目で文字は追っているが、次第に本の内容が頭に入らなくなった。
暁に気づかれるわけがない、とはわかっている。だが、彼をイメージする色からこのマスクを選んだのは事実である為、勝手に気になってしまった。こんなこと知られたら、気持ち悪いに決まっている。今日は一層、暁が見られない。
頭ではそう思っているのに、気になるからこそ、無意識に様子を窺ってしまってたのかもしれない。タイミングが悪く、暁と目が合ってしまった。
まずい、と露骨に顔を逸らす。遅れて全身が総毛立ち、汗が噴き出した。マスクが熱くなるほどに顔が火照っていると感じられた。
暁が何か言う声が聞こえ、こちらに近づく気配がする。私ではないと本に目を向けるが、集中できるわけがない。
妙に視線を感じる。それもひとりではなく複数の視線だ。おそらく暁がこちらを見たことで、周囲にいる人物もこちらを見ているのだろう。そんな光景を想像して慚愧に堪えない。
前の座席に誰かが座った。前の席の人が登校したんだと思いたいが、いつもとは違う香りがする。
恐る恐る顔をあげると、ニコニコした顔で私を見る暁の顔があった。
全身から血の気が引いた。
「それ、俺も読んだことある!」
私の思考を打ち砕くほどに軽快な言葉が飛んでくる。暁は「俺、本って基本読まないんだけどさ」と開き直ったように前置きすると、手を広げた。
「中学んときに読書時間ってのがあって、何か適当に本持っていかないとだめでさ。それで借りた本がそれだったんだよ。俺、映画で好きになって、図書館行った時、偶然目立つところにあったから」
あっけらかんと語り始める。たしかに話題作は、基本的に目立つ場所に陳列されるものだ。
暁と私では時間の流れが三倍ほど違うようで、彼のとめどなく溢れる言葉を脳内で追うのに必死だった。だからなのか、妙に思考が冷静になれた。
暁の柔らかい髪が、朝日に照らされてゆるやかになびく。細くて艶のある髪は手入れされていると感じた。健康的で清潔感のあるきれいな肌で、よく笑う影響か、頬も引き締まって見えた。オレンジ色のパーカーは、いまや彼のトレードマークとなっている。私いま、同じ色のマスクをつけているんだった。
風に乗って華やかな香りが届く。朝の爽やかな空気感のある香りだ。柔軟剤ではない、彩りのあるものだった。
暁を構成する要素ひとつひとつに好感が持て、彼に人が集まる理由を改めて実感した。同じ人種だとは思えない。
「小夜ちゃん?」
はっとして我に返る。目先には、こちらを窺う暁の顔があった。反応のない私を不思議に思っているのだろう。気づけば、冷静に暁のことを観察していた自分に驚き、忸怩たる思いだった。
名前を覚えてくれていたことに内心舞いあがるも、どう認知されてるのかが気になった。教室で静かな人だ、喋らない人だ、あたりだろうか。
って、何か、言わなければ……
「かっこいいね」
ふと、暁の表情が変わった。先ほどまでのまぶしい表情が一転して目を見開いている。なにが起こったのかわからず、つられて私まで目が丸くなった。
いま、どこからか、なにか幻聴が聞こえた気がした。