第三試合 現実vs夢②


テスト週間に入っていることで、基本的に部活動は停止と言われている。
だが、大会の重なるこの時期は、もはやそんな規則はあってないようなものだった。

吹奏楽部も、コンクールまで一ヶ月切っていることから自主練は許可されており、普段通りに教室を利用することができる。
私はコンクールには出ないものの、自宅では練習できないので応援曲の練習を行っていた。

「テスト、大丈夫なの?」

音楽準備室で楽器の準備をしている私に、一ノ瀬先輩が問いかける。
七月中旬であるものの、相変わらず艶のある黒髪が凛となびき、暑さを全く感じさせない佇まいだ。
当然のように毎日来る私に疑問を抱くのは、自分でもわかる。

「あぁ、はい、いや、大丈夫ではないんですが、テストよりも練習を優先したいなと思いまして……」

「応援でそこまで熱心に練習するのも珍しいというか。それだけ応援したい人でもいるの?」

唐突に問われて口籠る。
一ノ瀬さんは冗談で口にしたようで、私の反応に軽く目を見開く。

「へぇ、そうなんだ」

「いっ、いや、別にそんなんじゃないですから」

大袈裟に手を振って否定する。語尾が消えそうになった。
一瞬のうちに顔面から汗が噴き出し、顔の筋肉も強張った。
全く持って説得力の無い状態だろう。少しくらい感情を誤魔化すスキルをつけたいものだ。

それに感情を隠そうとするあまり、砕けた反応になってしまったことにも内心焦っていた。

だが、一ノ瀬さんは私を一瞥すると、目を細めて口角を上げた。

「ま、それならヘタな音出せないよね。適度にね」

そう言うと、一ノ瀬さんは自分の楽器を手に取り、颯爽と音楽準備室を後にした。
私はポカンと口を開けていた。

「げ、幻覚…………?」

一ノ瀬さんは、パートリーダーだけでなく、吹奏楽部の副部長でもある。先輩の中でも特に落ち着いたクールな人だ。
だが、そんな彼女が今、僅かだが笑ったように見えた。

先輩の新たな一面が見られたことに歯痒くなる。
唇をぎゅっと閉じても、なお溢れる笑みを顔を下げて隠した。

 

***

 

すでにテストも終え、残すは夏休みを待つだけとなっていた。

前座席に翔吏の姿がないことから、試合中なのだとわかる。
あれから雨は降らず、今日の試合に勝つと、次は日曜日の準決勝だ。
だが、勝ち進むにつれて相手もレベルが上がるものだ。もしかしたらコールドを考える余裕すらなくなっているかもしれない。
それだけに私は胃が痛くなっていた。

「もう試合、終わってるんじゃないの?」
昼休み、翔吏の席でお弁当をつつく依都は、時計を見ながら言う。

今日の準々決勝の第一試合が紫野学園だった為、延長があっても結果は出ているはずだ。

「うん。でも、自分で調べるの恐いじゃん」

「調べてあげよっか?」

「嫌だ」

私は全力で否定する。特に彼女は淡々としているだけ、心の準備をする間もなく結果を言いそうに感じられたからだ。

昼休みが終了し、野球部員たちが教室内に戻ってくる。
思わず翔吏に視線を向ける。彼は眉間に皺を寄せて首を傾げる。

「し、試合どうだった…………?」

恐る恐る尋ねると、翔吏は数秒静止し、そして親指を立てた。

「やった~!」
思わず大声でガッツポーズをする。

「馬鹿はよく吠える」

翔吏は首を捻りながら、前座席に鞄を置く。
依都も「本当、元気」と言いながら、席を立った。

「だって、これで応援にいけるんだから」

「汚い音だけは出さないでくれよ」

「出さないわよ。これでも毎日練習しているんだから」

翔吏の軽口も、浮かれている今は適当に流していた。
やっと、応援に行くことができるんだから。

「連絡がありましたが、無事野球部が勝ち進んだようなので、次の日曜日に私たちも応援に向かいます。楽曲は以前配布した通りに練習するように」

テストを終えた今、部活動も再開されていた。
部長が意気揚々と言うと、「ハイッ」と威勢のいい返答が上がる。

「空回りして下手な音は出さないでよ」
一ノ瀬さんが揶揄う。

「し、しませんから。毎日練習していたので」
その分、テストの結果がどうだったかは言うまい。

一ノ瀬さんは、感情の隠しきれていない私を一瞥すると「知ってる」と目を細めて笑った。

 

***

 

再び虹ノ宮総合運動公園に来ていた。
だが、以前とは違い、紫野学園の制服を着用し、部員と同じキャップも被っている。今回こそ堂々と胸を張って門をくぐっていた。
とはいうものの、先輩の前だけ気を抜くことはできない。

「一年生、早く運んで」

初めて訪れる場に茫然とする一年生を先輩は叱咤する。
私たちは背筋を伸ばして「はい!」と足早に行動した。

「関係者はこちらから」

球場内警備員の人たちが案内する。
前回来た時とは違う入口から入ることに特別感を感じ、さらに気が引き締まった。

球場内の階段を上がると、以前来た時とは変わらない青空が目に飛び込んだ。
休日かつ準決勝であるだけ、観客もほぼ満席に近いほど詰まっている。

「すごい……何か、緊張してきた……」同期の子が呟く。

「でも、楽しみだよね」私は何度も頷き同意した。

勢いがあったのか、同期の子は「テンション上がりすぎ」と軽く笑う。

野球部の部員の人達がいるすぐ隣に、吹奏楽部は腰を下ろした。
これだけ近い距離にいることで、自分も関係者なのだといちいち感激してしまうものだ。

「もうすぐアナウンスでスタメンが発表されるので、それに従って準備してね。交代や代打があるたびに、野球部の人がボードを掲げてくれるから、臨機応変に対応していくように」
部長は前方の野球部員に視線を向ける。

グラウンド柵前には、曲名の書かれた大きなボードがいくつも準備されていた。
私たち吹奏楽部の応援だけでなく、部員や保護者の声援、またチアリーディング部のパフォーマンスもある為の計らいだ。

アナウンスが始まり、スタメンが発表されるたびに野球部の大太鼓の音と拍子が響く。

数分後、球場内にサイレンが響き渡り、試合が開始した。

 

***

 

準決勝ということで、前回見た時以上に気合が入っている。
相手も当然だが勝ち上がるほどの実力がある為、中々点差はつかなかった。
試合は乱打戦になり、見ているこちらもハラハラするほどだ。

攻撃の時は演奏に集中しているので、じっくり観戦することができない。
下手な音は出すことができないので、声に出せない分、感情を音色に乗せた。

暑い日差しが肌を焦がす。ジリジリと帽子の中が蒸れ始め、頬に汗が伝う。
あれだけ体力作りをしたものの、時間が経つにつれて疲労が感じられた。

以前訪れた際は観戦だけだったが、今回は攻撃の時は立って演奏、守備の時は座って声援の繰り返しだ。想像以上に体力を消耗した。
交代のたびにスポーツ飲料を飲み、グラウンド整備の入る五回裏終了の時点で、すでに三本のペットボトルを消費していた。

だが、疲労以上に楽しさがこみ上げていた。

青空に快音が響くたびに喚声が上がった。
部員のかけ声に、応援団の熱い声援や拍子の勢いのあるアンサンブルに、気分がどんどん高まる。

少しでも大きく、少しでも長く応援がしたい。

「陽葵ちゃん、笑ってる」同期の一人が言う。

「うん、楽しくて……」

シャツは汗でベタベタするが、それですら心地良く感じられる。
お腹から音を出し、心の底から応援をすることは、これほどにも爽快感を感じるものなんだ。

試合は延長戦にもつれこみ、普段の試合以上に長くなる。
私にとったら嬉しい出来事だが、正反対に雲行きが怪しくなっていた。

紫野学園の攻撃である十二回裏。犠打で走者は得点圏まで進むも二死となる。一点差で紫野学園が負けていた。
不安で顔が強張る。この回で一点でも取らないとゲームが終わってしまう。それだけは嫌だ。

こちらの攻撃だが緊張してうまく音が出ない。手が震えてうまくピストンが押せなかった。
私にできることをしなければと頭では考えているものの、身体が言うことを聞いてくれない。

その瞬間、背中にバシッと衝撃が走る。

「何、恐い顔してんの」

私の後ろに立つ一ノ瀬さんが、切長の目を光らせながら言う。

「一ノ瀬さん……」

「味方のそういう顔がさらに選手にプレッシャーを与えるの。私たちは応援をしに来たんだから」

「す、すみません」
私は背筋を伸ばして構え直す。

そうだ。背中を押す役目である私が不安になってどうするんだ。
常にまっすぐな音を届けるからこそ、グラウンドの選手たちに勇気を与えられるんじゃないか。
私は大きく息を吸い、感情を音に乗せた。

その瞬間、快晴の空に白球が飛び上がった。

一瞬フライかと怯むが、打球は芯を捉えており、力強くバックスクリーンへと吸い込まれていった。
球場全体からわぁっと喚声が上がった。
私は思わず飛び上がる。逆転さよならツーランホームランだ。

速水さんがホームベースまで帰ってくると、力強く拳を天に掲げた。
緊張の糸が一気に解け、全身が力なく脱力した。

紫野学園高校の校歌が流れると、応援席まで選手が駆け寄る。
速水さんが指揮を取り、選手がお辞儀すると、応援席から大きな拍手が沸いた。

「ちょっと陽葵! 何泣いてるの」
同期は私の顔を見て、目を見開く。

「何か……安心したら急に……」
私は慌てて手で目を拭う。

「まだあと一試合あるんだから。早いよ」
一ノ瀬さんも苦笑しながら言う。

「すみません……でも、よかった……」

こんなに緊張したのはいつぶりだろうか。いまだに胃が痛い。
だが、あとひとつで甲子園だと考えると、再びこみ上げるものがあった。

スコアボードには、さよならを示す×印が刻まれていた。
試合が終了したことで、急いでその場を片付け始める。

 

***
次のチームの応援団が来ていた為、颯爽と球場を後にした。
あっさり退出することに名残惜しく感じるも、明後日の決勝戦は夏休みに入っている為、再びこの場に来ることができる。寂しくはなかった。

水分補給休憩している紫野学園の選手たちが目に入る。速水さんは皆の中心で談笑していた。
一言声をかけたかったが、運搬や先輩の目もある中、自由な行動を取ることなんてできない。
遠くからチラチラ視線を送っていた。

だがそこで、速水さんに近づく一人の女性が目に入る。

くるみ色のボブヘアに、Tシャツに短パンとシンプルな格好、手にスポーツ飲料の入ったペットボトルを握りながら、速水さんを見ている。声をかけるタイミングが掴めない様子だった。

速水さんはボブヘアの女性に気がつくと、輪を抜けて彼女の元まで寄る。
女性の方は緊張した面持ちで速水さんにペットボトルを差し出した。

その瞬間、速水さんは今まで見たことないほどに柔らかい顔になった。
普段の少年のような爽やかな笑顔ではなく、私はもちろん、友人といる時でも見せないほどに温かくて大人な顔で、まるで愛しい人を見守るかような感情が秘められていた。

察してしまった。あの人は速水さんにとって、どんなに大切な人なのか。

そう判断した瞬間、急に心の中がざわつき始めた。

「橘さん、早く」

先輩が急かす。脊髄反射で返事をするも、頭が呆然としていた。
先ほどまで高ぶっていた熱は鎮火し、冷気で冷やされたように顔が強張っていた。
***

次の日の月曜日。
今日は終業式で午前のみだった。その為、久しぶりに教室内が騒がしく感じる。

「今回の死因は何?」

教室内、机に突っ伏す私に、依都は冷静に問いかける。
私は無言で彼女に顔を向ける。

「…………ちょっと、いいなと思っていた人に、彼女がいた……」

「もしかして、速水さん?」

名指しで指摘されたことで、思わず飛び起きる。

「なっ、何で!?」

「あ、本当にそうなんだ」依都は特に驚いた様子もなく答える。

「私、委員で速水さんと一緒でさ、前に陽葵と地元が同じだって話を聞いていたから」

「そうだったんだ」

やっと念願の球場で応援するという夢を達成したはずなのに、昨日からずっとモヤモヤしていた。
それだけ、あの女性の存在が引っかかっていた。

「へぇ、じゃ、陽葵は速水さんのことが好きなんだ」

依都の言葉を理解するのに時間がかかった。
無言で顔を向けると、依都は私をジッと見つめていた。

「……………………私が?」

「陽葵は顔に出やすいからね。それこそ今の陽葵の顔は、恋する乙女」

「馬鹿にしてる?」

「いいや、褒めてる」依都は真顔で答える。

私は「依都は顔に出なさすぎだけど」と投げやりに呟く。

「まぁ、陽葵には辛い現実かもしれないけどさ、高校三年生なんだから、彼女くらい一人か二人いてもおかしくないよね」

「二人は問題だと思う」

「高校野球の強豪でキャプテンにキャッチャー、誰にでも優しく話しやすい、クラスでもムードメーカー的存在でしょ。極めつけに爽やかでまっすぐな人。だからむしろ、そういった存在がいないほうがおかしいんだよ」
依都は冷静に分析する。私は険しい顔で彼女を見つめる。

「依都には、友人を労わるというスキルがないの?」

「私は現実的なだけだよ」

「私、依都と友達になれてよかった」もはや、やけくそだ。

教室ドアが開かれる。今日は朝練がないのか翔吏は普通のスクールバッグを所持していた。
日に日に焼けていくその肌が、夏と戦っている証だと示している。

彼は力なく突っ伏す私を見て「ぶっさいくな顔」と呟いて前の座席に座った。

いつものその言葉も、今の私には素直に受け入れてしまうほどに、現実を見てしまっていた。

 

***

 

決勝の日がやってきた。
すでに球場内は満員通知が出されていた。
球場周囲も応援団体や保護者で溢れ、今日は特にメディアの数が多い。

前回と同じくスタンドで応援の準備を始める。
グラウンドでマスクを被る速水さんを見る。爽やかな笑顔が飛び出すたびに心臓が締め付けられた。

私は、速水さんのことが好きなのか?

問いかけても返答は返ってこない。
だが、以前ここに来た時からずっと速水さんとあの女性のことばかり考えている。
私に甲子園を連れて行ってあげると言ってくれたのに、本当に連れていきたい人がいた事実に悲しくなった。
やはり私は、依都のように現実を見ることはできないようだ。

「決勝だから人すごいね~」
同期の声が聞こえて正気に戻る。

そうだ。今日は決勝だ。
今は、うつつを抜かしている場合ではない。

今日で甲子園に出場する学校が決まるだけに、球場内もピリリとした緊張感が生まれている。
こんな重大な場面で、以前のように音が出せなくなるだなんてことはしたくない。

邪念を飛ばすために、勢いよく頬を叩く。
周囲の人たちが驚くも、構うことはなかった。

あと一勝すれば、夢にまで見た甲子園なんだ。気を抜くことなんてできない。

今日は先攻だ。
選手がグラウンドを駆けると同時に、私たちは楽器を所持して立ち上がる。

 

***

 

試合は序盤、前回とは対照的に守り難い攻防戦だった。
ヒットが出ても走者を勧められずに交代が続く。両者一歩も引かない固い守備でスコアボードはゼロが続いた。

だが終盤に入った八回表、紫野学園にヒットが続き、ついに一点先制する。裏で盛大な金属音が響くがフライとなり交代、継投で相手校に球を絞らせないでいた。

九回表で一点追加して点差を開く。
甲子園が現実的に感じられて鳥肌が立った。
足もガクガク震え、緊張が全身に表れていた。だが、下手な音は出せない。

九回裏、得点圏にランナーが進められるも、あとアウトひとつに迫る。

緊張で胃が痛い。むしろ応援していた方が気が紛れてよかった。
これほど早くゲームが終わってほしい、だなんて思ったことがない。

球場全体が紫野学園の空気だと感じられる。完全にこちら側の流れだ。

だが、現実はそう甘くない。

ピッチャーの軌道がずれ、キャッチャーがミットからボールを逸らしてしまう。その隙に二塁にいた走者は三塁へと進塁、打者も一塁セーフとなり、ツーアウト一、三塁となった。
あとアウトひとつだが、一本でも出ればサヨナラとなる場面だ。

前回とは形勢が反転しているからこそ、顔が強張った。

「応援!」

応援団の人が叫び、熱い声援が湧き上がる。

だが、その声援を割くように金属音が響いた。

 

***

 

相手チームがマウンド上で、天に人差し指を上げて喜ぶ姿が目に入る。
その光景を紫野学園の選手たちは、茫然と眺めていた。

応援席も唖然と目を見開いて息を呑んでいる。私も頭がついていけていなかった。

確かに数分前まで、こちらの流れだったはずだ。
だが、あの瞬間が錯覚かと感じる現実が今、目前に広がっている。

「並ぶよ」

次々に崩れる選手の中、速水さんは皆の肩を叩いて整列を促す。

その奥では、翔吏がスコアボードをじっと見つめていた。

 

***

 

優勝校のインタビューや閉会式も終わり、応援席も片付けに入っていた。
だが、いまだに現実が受け入れられていなかった。

「大丈夫?」

一ノ瀬さんが、不安気に私の顔を覗き込む。先輩であるにも関わらず、どうしても対応する頭が回らない。

「うちって、負けちゃったんですか」

いつの間にか口から出ていた。
一ノ瀬さんは私を一瞥すると、「そうだよ」と短く告げる。

「うちは負けた。だから私たちの応援も、今日でおしまい」

言葉の意味は理解できるのに、どうしてか感情が湧き上がらなかった。
前回は思わず涙が込み上げたが、今回は涙すら出なかった。

長時間日光に浴びていたからか、帰宅中も頭が回らなかった。
玄関ドアを開くと、母が出迎えてくれる。

「紫野学園、残念だったね……」

母が気の毒そうに口にする。メディアもたくさん来ていただけに、おそらく夕方のニュースで、すでに結果が放送されていたのだろう。

グラウンド上で次々と選手が崩れる中、速水さんだけはまっすぐに現状を見つめていた。主将という立場だからか、あるいはピッチャーの女房役だからか、全く感情を見せていなかった。
高架下で練習していた速水さんを思い出す。ひたむきに甲子園を目指す姿を毎朝見ていただけに、彼だって悔しいはずだ。

私だって悔しい。
でも、悔しいのは速水さんのほうだ。

「うん……負けてしまっ……」

その瞬間、一気に涙が溢れ出した。

「陽葵!?」

母は目を見開きながら、近くのティッシュを差し出す。

私は甲子園で応援するのが夢だった。
でも今では、甲子園に行けなくて辛い思いをしている速水さんを思うのが辛かった。

それだけ私の中で、速水さんの存在が大きくなっていたんだ。

あれから、高架下で速水さんの姿が見られなくなった。
試合が終わったことから引退したのだろうが、あれだけ毎朝バットを振っていただけ、ぱったりと練習を止めてしまった現実に悲しくなる。
いや、それだけショックが大きかったのかもしれない。

私は唇をぎゅっと噛むと、普段のようにランニングを行った。

それからの夏休みは、流れるように過ぎていく。
一年生は全く関わりがなかったが、八月入ってすぐのコンクールも無事終了する。
残念ながら全国には行けなかったものの、金賞という輝かしい成績を維持したまま今年も幕を閉じた。
秋に行われる定期演奏会の為に、私たちも楽曲の練習シフトが組まれる。

テレビでは連日甲子園が放送されていた。
毎年張り付いて見ていたが、今年は全く見られなかった。相手校の名前を見るたびに速水さんを思い出して辛かったのだ。

速水さんは今、何をしているのだろうか。
三年生で受験を控えているだけ、もう野球から離れた生活を送っているのかもしれない。

――――ま、俺もどっちかといえば、少しでも野球したいってのはあるけどな。どうせ早く終わっても、こうして触ってるんだし

楽しそうにバットに触れる速水さんの姿が、脳裏に映し出される。
心から野球が好きなんだと伝わったからこそ、今の現実を受け入れられなくなっていた。

 

***

 

八月十三日、地元の「藍河稲荷神社」では、夏祭りが行われていた。
この夏祭りは、神社内が広いことから出店の規模が桁違いと言われている。たこやきやりんご飴といった定番のメニューはもちろんのこと、少し変わった屋台も多数ある為、毎年来ても飽きることがない。
今年も、地元の友人たちと訪れていた。

「今回はお化け屋敷入る?」
友人は嬉々として話す。

「今回も入らないよ!」
私は怪訝な顔でりんご飴を齧る。

緑の多い田舎ではあるものの、この夏祭りは全国的に有名で、毎年人がたくさん訪れる。
夏の夜に陽気なBGMからも、夜テンションで舞い上がっていた。

普段のように友人たちと過ごしていたが、和太鼓の演奏の広場まで辿り着いて目を見張る。

「速水さん……」

遠くの角のベンチに、速水さんらしき大柄な体格の人が座っていた。
その隣には、以前球場で見かけたボブヘアの女性が座っている。夏祭りだからか浴衣を着用し、髪も合わせてアップスタイルになっていた。

私は全身から血の気が引いた。

「陽葵?」
友人は不安気に私を覗き込む。

「う、ううん。ちょっと暑くてぼーっとしちゃった。ね……悪いけど、ちょっと川で休んでもいい?」

「いいよ~。私は屋台目当てだったし」

友人は間延びした声で言う。昔からの腐れ縁なだけに融通が利いて助かるものだ。
私はそのまま、逃げるように藍河稲荷神社を後にした。

何だか私だけがモヤモヤしていたのかなと考えると複雑だった。
別に報告の義務なんてないはずなのに、私だけが速水さんの心配をしていたように感じられて理不尽に納得がいかなかった。
こういう時に面倒くさいので、冷静に現実だけを見つめられる依都が時に羨ましくなる。

家に帰宅すると、そのままベッドにダイブする。汗や屋台の香りの染みついた服で居心地が悪いが、今は構うことがない。

速水さんのあの女性を見る顔が脳裏から離れない。

胸がぎゅっと締め付けられる。次第に唇が震え、頬の筋肉も痙攣し始める。
あんなの、どうしたって敵わないじゃないか。

「好きなのに…………」

そう呟いた瞬間、目から涙が伝った。
静かに音もなく、さらりと頬を滑る。

「…………嫌だなぁ……どうして…………」

声を殺して感情を吐き出す。
胸が圧迫されて呼吸が乱れ始める。
頭に熱が籠り、思考回路が鈍くなる。

速水さんは何も悪くない。
だけど彼と出会ったことで、こんなにも自分の醜い姿が現実となって現れてしまった。

口で言われなくても一目で敵わないと判断できる。
それなのに、どうしても素直に認めたくなかった。

何で、話しかけてくれたんだろう。
何で、自分じゃないんだろう。
何で、優しくしてくれたんだろう。

一人で勝手に舞い上がっていただけなのに、全部全部悔しくなった。

純粋に応援に熱中するはずだったのに。
自分の中に、ドロドロとした感情があることも気付かずに済んだのに。

速水さんと出会わなければ、こんな想いはしなかったのだろうか。

 

第三試合 夢vs現実 完