冬だなぁ、と窓の外に広がる真っ白な絨毯を見ながら僕は思う。
それと同時に、そういや大雪になるって言ってたっけ、と昨晩見た天気予報を思い出した。
十月のハロウィンからクリスマス、大晦日、お正月、節分、と秋から冬の期間は行事が増える。
ただ、ほとんど人と関わることのない僕にとっては、この場所から見える景色の変化が、唯一季節を感じられる風物詩となっていた。
見慣れた風景でも、気候によって色が変わり、退屈しないものだ。
目前にそびえる大きな桜の木。葉が全て落ち、丸裸となった枝に、紡がれたての白い服が着せられている。
木の周囲にも、踏み荒らされた形跡のない、新鮮な綿が広がっていた。
朝日に照らされて、目が焼けるように眩しく感じる。
触れてみたい、と思うものの、出られないとわかっているので、その感情を抑え込む。
僕は重い足を動かして窓に近づく。
雲ひとつない快晴だ。昨晩、大雪だったことでより一層空気は澄み、今晩の空はきれいだぞ、と内心気分が躍る。
だが、そこで異変に気づく。
目前にそびえる桜の木の上、真っ白な雪に覆われた枝の隙間から覗く紅一点。この目線だからこそ気付けたのだろう。
それが人だ、と認識するのには、少し時間がかかった。
「この場所にいて、気付かれるのは珍しいわね」
赤髪の少女は、おもしろくなさそうな顔で木から降りる。
黒いレースのあしらわれたドレスが可憐に揺れ、ボフッとの音と共に、真っ白な綿が舞い上がる。
「この街に、こんなに雪が降るのも珍しいもんだ」
少女に続いて、隣に座っていた全身黒服に銀髪の青年も木から飛び降りる。手には雪の塊を所持し、何かを咀嚼するように口元が動いている。
空気中の不純物が混ざることで、純白に見える雪でも汚い、とは僕ですら知っている事実だが、まさか食べてたわけではあるまい。
少女は凛と背筋を伸ばして、こちらまで歩く。
幼い体躯には似つかわしくない無機質な顔。妖艶に輝く紅の髪も相まって、さほど人と関わった経験がないくせに、「この人は普通じゃない」と直感的に感じた。
昨日、担当医からあんなことを言われたせいでもあるだろう。
「君、もしかして僕を迎えにきた、死神かい?」
軽い調子で口にしたものの、少女は僅かに動揺したので苦笑した。
シーズン4【雪村 冬馬】
今、自分の身に起こっている現実に困惑していた。
「これは、何の魔法かな」
僕は動揺を表わさないように、窓枠に腰掛ける赤髪の少女に尋ねる。
「魔法じゃないわ。自然の摂理よ」
少女は、感情の籠っていない声で答える。
「それが不思議だって言ってるんだ。だって、壁から両手を話しても、僕は立てている」
そう言って、壁についていた手を恐る恐る放す。
「人間は、二足歩行生物だったはず」
「それはそうだけどさ」
僕は苦笑する。「僕は、歩けない身体だったんだよ」
何の補助もなく、自分の力だけで立ったのはいつぶりだろうか。
両手に何も所持していないにも関わらず、視線が普段よりも高い。
生まれてから車いすに座っている時間の方が長い僕にとったら、慣れない目線だった。
恐る恐る足を踏み出す。床の固い木の板の感触が足の裏全体に伝わり、脚は震えず、指先までしっかりと力が入っている。どこも痛みは感じない。
もう一歩踏み出して、今度は足を曲げてみる。慣れない行動に身体がついていかないのか、ポキッと軽い音が鳴るものの痛みは感じない。膝はしなやかに曲がり、亀裂が入ったように染みる脳への痛みも全くなかった。
目前に立つ赤髪の少女に顔を向ける。
「君は、僕の魂を取りにきた、死神さんじゃなかったのかい?」
「そうね」
赤髪の少女は、くすりとも笑わずに答える。
「でも、僕はさっきよりも状態が良い」
僕は手をにぎにぎして確認する。「さっきと言うよりも、ここ数年で一番調子がいいよ。どこも痛くないし、何より久しぶりに自分の力で立てているんだから」
「痛みがないことや立てることは、普通のことだわ」
「僕にとっては、特別なんだよ」肩を竦めて答える。
「で、死神なら、どうして僕を助けるようなことを?」
僕はもはや投げやりに尋ねる。全く相手にされない寒い死神設定も、いまだ現状を受け入れられていない僕にとったら、気を紛らわせられる温かいネタだ。
「死神を人殺しか何かと勘違いしているのかしら」
少女は心外だ、と言いたげな顔を向ける。
まるで自分が非難されているような態度をとる彼女に、自分で言い出したにも関わらず、どこまで本気かわからなくなる。
途端、「冬馬」と呼ぶ声とノック音が響く。
まずい、と僕は反射的に傍にあった車いすに座るも、少女は窓枠に腰掛けたままだ。
内心焦るも虚しく戸は開かれ、「物音がしたけど、どうかした?」と母が顔を覗かせる。
「べ、別に何もないよ。今日は何だか調子が良くてさ。少し部屋の中を移動していただけ」
僕は平静を装って答える。
「この寒いのに、何、窓開けてるの」
風邪ひくわよ、と母は言いながら室内に入ると、少女の座る窓枠に近寄る。
「換気は必要でしょ」
調子を変えずに言うも、冷や汗が止まらない。
だが、母は何も言わない。確実に少女が視界に入っているはずだが、まるで姿が見えていないような素振りだ。
少女は窓枠からぴょんっと飛び降りて室内に入る。母は何ごともないように窓を閉めると、僕に振り向く。
「今日は何が食べたい?」
「うーん、気温が低いから、温まるものがいいな」
「ならポトフにしましょうか。栄養士と相談してくるわね」
そう言うと、母は部屋を出て行った。
僕は数秒静止し、少女に振り向く。
「まるで、君のことが見えていないような態度だった」
「私の姿が認識できる人間は、限られている」
死神なので、と少女は真顔のまま答える。
僕は大きく息を吐く。
冷静になる為にも、自分の身に何が起こったのか整理してみることにする。
「あなたの未練は何ですか?」
木から降りてきた赤髪の少女は、僕のいる部屋の窓前まで来ると、唐突に尋ねた。
無表情で淡々とした物言いから、事務作業のように感じられるものの、冗談を口にしているようにも見えない。
「それ、僕に聞くのかい?」
僕は自虐気味に答える。「幼少期から、病院暮らしの僕に」
軽い調子で合わせたつもりだが、彼女の表情筋は全く動かない。
この場に来てくれたからには、少しは話し相手になってもらいたいものだが。
「でも、あなたは確か、白扇高等学校の三年生だと聞いている」
少女は手元の分厚いハードカバー本を広げながら確認する。
まるで電話帳みたいに扱うその姿に、「それに僕の情報でも書いてあるのかい?」と茶々を入れると、「そうね」とさらりと返答がある。
ここまで貫き通されると混乱するな、と今まで僕と関わってきた人たちもこんな心境だったのかと少し反省する。
僕は観念して頭を軽く振る。
彼女の態度からも、真偽を聞き出すのは難しいだろうことは目に見えていた。これが素なのかはわからないが、適当にはぐらかされるだけだ。
今はそれよりも会話を進展させて、目に見えている現状を理解することが先だ。
「そうだよ。学校自体は小学一年生の数ヶ月しか通えてないけれど、通信で授業を受けさせてもらえてるし、一応学生ってことにはなっている」
最近はサボり気味だけど、と肩を竦めると、居住まいを正して彼女を見る。
「未練なんて、山ほどあるに決まってるでしょ。できなかったことの方が多いんだから。で、それを言ったら、君は叶えてくれるのかな」
「そうよ」
少女は真顔のままさらりと言う。
あまりにもあっさりとした返答に、僕は怪訝な顔になる。
「……あのさ、どこまで本気かわからないけれど、あまり人に期待を持たせるような冗談は良くないよ」
僕は声のトーンを下げて叱る。
僕自身が心掛けていることだ。真実ではない言葉を口にする時は、他人に不安を与えたくない時だけで、人を落胆させたり、傷つけるようなことは言わない。
彼女がどこまで僕のことを知っているのか定かでないが、少なくとも僕の現状を知っているのであれば、こんな野暮なことは口にできないはずだ。
「どこまでが本気も、私は嘘は吐かない」
誰かさんと違って、と投げやりに呟く声が続く。僕のことかと内心焦る。
「まーこういうのは『百聞は一見に如かず』ってやつだろ」
少女の後ろから、ひょこっと眼帯の青年が顔を覗かせる。
雪で遊んでいたのか、全身黒い服がところどころ雪で白くなっていた。
幼い体躯ながら笑わない少女に、嬉々として雪で遊ぶ青年。
僕は額に手を当てる。これ以上、混乱させないでくれ。
「『百聞は一見に如かず』?」少女が尋ねる。
「百回聞くより、一回見た方が早いってやつだ。人間の情報の八割は視覚かららしいからな」
「なるほど」
少女は感心するように頷くと、こちらに振り向き、じっと観察するように僕を見る。
「まずは、何をするにも行動できなければいけないわ」
少女がそう言うと、どこからか取り出した紫色の花の花弁を一枚千切って宙に放った。
ヒラヒラと舞う花弁を茫然と眺めていると、火が消えるように意識が途切れた。
そうだ。僕は少女が花を千切った瞬間、意識が途切れ、次に目が覚めた時には立ち上がっていたんだ。
思い返したところで、何故僕が立ち上がれているかの具体的な根拠は判明しない。
普段の癖で表情に出さないよう努めるものの、さすがに混乱して反応ができない。
「百聞は、一見にしかず」
窓辺に腰掛ける少女は、噛み締めるように頷く。「信じてもらえたかしら」
「つまり、君は本当に、僕の未練を叶えに来たってことだ」
「そう」
「対価は僕の命か?」
僕はすかさず尋ねる。少女は面食らった顔で僕を見る。
「こんな突飛なこと、信じられるわけがない。でも今実際、立てているのは事実なんだ。でも、僕は君のことを知らないし、君に良心でここまでやってもらえる義理もない。そして君は、僕が冗談で尋ねた『死神』という言葉を否定しない。かなり空想的な思考だけど、最期に僕の未練を叶えてあげるから命を頂く、というのだったら妙に納得できるんだ」
僕の言葉を聞いた少女は、興味深気に顎に手を添える。
どこからか、「おいリン。話通り『かまくら』ってやつの中はすげーあったかいもんだ」と青年の無邪気にはしゃぐ声が飛ぶ。
少女の背後を見ると、青年が作成したであろう大きなかまくらが見え、入口からこちらに顔を覗かせる青年の姿が見える。全身黒服に眼帯とかなりいかつい容姿であるが、その顔は小学生の子どものようにきらきらしている。
かまくらはネットの中でしか見たことがなかったので、内心浮き立つものの感情を抑える。
「珍しいわね」
少女は青年を無視して口を開く。
「人間は、ずっと頭から離れない未練があると、自分のことばかりに意識が向いていて、物事を冷静に考えられなくなるもの。簡単に解消される、とわかったら、対価なんて考えずにまずは飛びつく。だけど、あなたはこの現状をしっかりと見据えている。それだけ『死』に対して向き合っているようにも見えるわ」
そこまで言うと、少女は顔を上げて「何か、そう思える要因でもあったのかしら」と尋ねた。
僕はしばらく黙り込むと、「だって昨日、余命宣告されちゃったからね」と軽い調子で答えた。