頭上には曇天が広がっていた。
灰色の空。今にも雨が降り出しそうな危うい様子だった。
私はため息を吐く。梅雨の時期なだけ仕方ないものの、ついてないものだ。
「帰るときには降るかぁ……」
腕時計を見る。学部説明会まで、まだ一時間近くあった。
周囲を見渡す。歩道は車が通れるほど広く、中庭には西洋風な敷石や噴水、花壇も手入れがいき届いている。紫陽花がそこら中で確認できた。
校舎も大きく、この場から全てを見渡すことができない。学部説明会の教室へ辿り着くまでに十五分かかった。
私は身震いする。うちの狭くて小汚い公立高校とは比べようもない。こんなの見てしまえば、ますます大学進学の意志が固まるはずだ。
ベンチが目に入ったので腰をおろす。高級感溢れる鉄製のひやりとした感覚が服越しに伝わった。
今日は日曜日のため、大学生の姿は、ほぼ確認できない。私と同じく制服を着た高校生がチラチラ確認できるだけだった。友人たちと一緒に来ている人がほとんどで、皆緊張した面持ちだ。
一人で来ていることが妙に恥ずかしくなり、無意識にリュックを抱きしめた。
友人が行くから、と何も考えずに商業科に進学したが、商業科の進路は、大抵就職だ。私のクラスも現在就職活動で説明会に足を運ぶ人が多い。クラス全体が就活モードのため、学校では基本受験ではなく就職の講座に力が入っている。
だが私は、高卒で就職する気は、なかった。
バイト先の先輩から大学は自由で楽しいよ、と聞いていたし、就職は大学卒業後でもできる。だから学生でいられる今できることを優先したかったのだ。
高校までは、友人に流されて生きていたが、最後の学生生活くらいは私のやりたかったことをやろうと決めた。
指定校推薦を狙っているので、大学や学部に拘りはない。
ただ目的の部活があればよかった。
この大学は、私の条件に合てはまっていたのだ。
リュックからファイルを取り出し、一枚の紙を取り出す。何度も見ていることで少しシワになっていた。
この大学の部活動紹介チラシ。新入生歓迎会の時に配られた、とバイト先の先輩からもらったものだ。
「観望会、言ってみたいな……」
天文部の紹介チラシ。私が目的とする部活動だった。
幼少期にずっと憧れていたことがある。やりたかったことがある。だから私は、大学では天文部に捧げると決めていた。
来年の今頃には、この観望会に参加しているのだろうか。
気分が高揚して顔が熱くなる。気をそらすために何となく周囲を見回す。
人がいたと今さら気づく。私のベンチの斜め後ろにあるテラスに1人 、男性が空を見上げていた。
黒いゆったりしたプルパーカーに、髪は長めで揃えられてカットされている。リング状のピアスがつけられ、右手には火のついたタバコを携える。そのテラスは喫煙所だったようだ。
成人しているのは確実だが、教師には見えない。この大学の学生だろう。
オシャレな人だな、と見とれていた。タバコを吸う姿が大人で、高校生の自分が幼く感じた。
無意識に視線を送り続けていたようだ。彼と目が合った時には遅かった。
露骨に視線をそらす。冷や汗が流れ、顔が真っ赤になった。
視線が刺さる。おそらく彼がこちらを見ているのだろう。
足音が近づく。なぜかわからないが、背筋が伸びた。気づかないふりしながらも、リュックを抱きかかえるように身を縮めた。隠れられる穴はない。
「そのチラシ、誰かにもらったの?」
頭上から透き通る声が降る。恐る恐る顔を上げると、案の定タバコを吸っていた彼が私を見ていた。
ラベンダーベースの香水の中に灰の香ばしさを感じる。首元には、ネームプレートが下げられ『土屋』と記載されていた。
ハッとして意識を戻す。私に声をかけられたのだと気づくのに三秒ほどかかった。
「は、はい、バイトの先輩に……来年入りたいなぁと思って……」
「本当!? 嬉しいよ」
予想外の返答に、思わず顔を上げる。
タバコの彼、土屋さんは目をキラキラさせて私を見ていた。
「俺、その天文部の部員。まさか高校生で入部希望の人に出会えると思っていなかったよ」
「そ、そうなんですか……!」
予想外の返答に若干たじろぐが、土屋さんは嬉しそうに笑いながら言葉を続けた。
「天文部、楽しいよ。神社で観望会開いたり、小学校で天体のイベントやったりするんだ。夜にみんなで山にいって、空見上げたりね」
唐突に飛び出た「空」という単語に無意識に背筋が伸びた。妙な反応をした私に、土屋さんは微笑みながら首をかしげる。
「研究でも天体のことに触れるんだけどね。でもやっぱり部活は違うというか何というか……」
そう言うと、土屋さんは空を見上げた。つられて私も顔を上げると、曇天の隙間から太陽の日が差していた。
「俺、空が好きなんだ」
土屋さんは、頬を緩めてそう言った。
勘違いしそうなほどに柔らかくて温かい言葉が、頭から離れなかった。
キーンコーンカーンコーンとベルが鳴り、我に返る。気づけば説明会まであと十分となっていた。
自惚れた感情を振り払うように頭を振ると、慌てて立ち上がる。
「らっ、来年、よろしくお願いします……! 受験、受かったらですが……」
そう言うと、土屋さんはハハッと笑いながら左手を振った。キラッと何かが光る。薬指に指輪がつけられていた。
彼女、いるんだな。
一瞬でも、嬉しくなった自分に罪悪感を抱く。私は足早にその場を去った。
志望校はまだ決めていなかった。だけど今では、他のオープンキャンパスは行かなくても良いかも、という考えに変わっていた。
「空が、好きかぁ……」
溢れるニヤけを隠すように下を向く。
来年見上げる空に期待しながら、会場まで向かった。
『星降る夜のキャンパス』