第一セメスター:四月➀



「空、きれいだね」

 ふと届いたその言葉に、顔を向ける。

 女の子たちがスマホ片手に空を見上げていた。脇に新歓用チラシを挟んでいることから、おそらく私と同じ新入生だろう。
 一日の行事を終えた夕方、ピンク色に染まる空は、確かにきれいだった。

 無意識に勘違いしてしまった自分に、いたたまれなくなる。

「空、きれいだよ」

 背後から感情の感じられない声が届く。
 顔を向けると、友人の地咲 月夜(チザキ ツキヨ)が、曇りのない瞳で私を見ていた。その顔は、うぬぼれんなよとでも言いたげだ。

「……からかってるよね」

「私は、本当のことしか言わない」

「紛らわしい」

 私は頬を膨らませる。 「しょうがないじゃん。私の名前『空』なんだから」

 倉木 空(クラキ ソラ)。外では天候を気にすることが多いからか、『空』という単語は案外口にされやすい。その度に、反応してしまうのだ。

 誰だって名前を呼ばれれば、反応はするものだろう。名前を呼ばれて無視する人間になるより、勘違いする方がかわいいはずだ。

「でもそんなんだと、これから大変じゃない?」

 月夜はそう言って私の持つチラシに目をやる。「入るんでしょ、天文部」

 私が持っているのは、天文部の新入生歓迎イベントの書かれたチラシだった。

 灰葉大学に入学して二日。まだ講義はなく、休み時間のたびに、学内のあちこちで部活やサークル勧誘で溢れかえる。一枚受け取ればたちまち目をつけられ、ほぼ強制的にチラシを押し付けられるものだ。

 だが私は、前から入部する部活は決めていたので、たった1枚だけしか受け取っていなかった。

「もちろん。私は天文部に入るために、この大学に来たんだから」チラシを握りしめて強く答えた。

 灰葉大学を選んだのは、昨年のオープンキャンパスがきっかけだ。
 空が好き、と言った彼が忘れられなかった。

 あれ以降、他の大学のオープンキャンパスは全て止め、代わりに成績を少しでも上げることに力を注いだ。指定校推薦で扱われるのは、三年春の成績だと担任から聞いていたからだ。

 結果、評定平均は四・五。無事に夏休み明けの指定校推薦をもぎ取ることができたのだ。

「部活目当てで大学を選ぶなんて珍しいよね」
 月夜は、配られる勧誘チラシを手で断りながら言う。

「最後の学生生活だよ。やりたいことやりたいじゃん」

「それだったら、理学部に行けば良かったのに。たしか天体専門の学部があるでしょ」

「判定が全然ダメだったの!」

 研究で天体に携わると言っていた土屋さんは、おそらく理学部だろう。同じ学部に通うことも一瞬考えたが、現実的に難しかった。

 何より土屋さんには彼女がいるのに、彼目当てで同じ学部に通うなんて、ストーカーも良いとこだ。

「だからさ、月夜も明日の花見、一緒に行こうよ」

 私はチラシを月夜に向けるが、 興味ないとつっかえされる。

「 一人は不安なんだよ〜」

「入る気、満々じゃないの?」

「それはそうだけどさ、 初めての大学のイベントに一人で参加するのって中々勇気いるじゃん」

 うちのクラスからこの大学に通う人はいなかった。だが偶然バイト先に同じ大学の先輩がいたこと、そして小、中学とクラスメイトだった月夜も同じ大学に通うと知り、なんとか心細くない状態で大学生活を始められていた。

「人が多いところ、好きじゃないし」
 月夜は長いまつげを伏せて答える。私は口ごもる。

 彼女とは長い付き合いだ。大人数のイベントが嫌いだということは、元々分かっている。
 だが、まだ友達が彼女しかいない私は、ここで引くわけにはいかなかった。

「ちなみに新入生歓迎イベントって、基本的に新入生は無料なんだよ。お菓子とかジュースとか飲み放題で……」

「行く」

 言い終わる前に、月夜は返答する。
 こなれた化粧や無地の服の着こなしから、自分よりも大人に成長した彼女だが、打算的なところは昔から変わっていない。
 友人も一緒に来てくれることに安堵する。

 校門までの歩道は、上級生たちの花道ができていた。私たちは渡されるチラシをいなすように空を見上げながら歩く。
 ピンク色に染まる空は、とても可愛らしい。

「空、きれいだね」

「だから言ってるじゃん」

 明日からずっと待ち望んでいた、キャンパスライフ が始まるんだ。
 私は高揚した気持ちを隠すように、チラシで口元を隠した。



***

 目的地の河原は、人で溢れていた。
 桜は満開。絶好のお花見日和だ。

 ブルーシートが敷かれ、お菓子やジュースが大量に買い込まれている。あちこちから笑い声が聞こえ、花見というよりは人との交流を楽しんでいるようだ。
 花見するのは初めてだが、イメージ通りの光景だった。

「人、多いね」

 月夜は変わらない表情で言う。わずかながら眉間にシワがよっている。やはりこの空間は苦手なのだろう。

「桜満開だし、どこのサークルも考えることは同じなんだよ」

 私は『天文部』と書かれている看板を見つけると、足早に向かった。
 大きなブルーシート上には二十人ほど、周囲にも空を見上げたり川で遊ぶ人もいる。
 だが、彼らを見て無意識に顔が曇った。

「おっ、もしかしてウチに興味ある? 女の子は大歓迎〜!」

 私たちに気づいた部員らしき人が、軽い調子でこちらまで近づく。ナンパのようなノリに、若干怖気ついた。

 何と言うか、言ったらなんだが、この場にいる皆、軽そうな容姿をしていた。茶髪とピアスはデフォルトで、奇抜な服を着ている人もいる。
 私も大学デビューで髪を染め、ピアスを開けたが、モドキの私とは空気感が違う。本物の陽の人間だ。
 それだけに疑問に思った。ここは本当に天文部なのだろうか。

「ここって、天文部であってますか?」私は素直に疑問を口にした。

「そうそう、天文部だよ」

「みんなで空を見上げる、ロマンチスト集団!」

「その言い方、なんかやだな〜」

  先輩たちは次々に言葉を発する。彼らのノリについていけなかった。

 周囲を見回す。土屋さんは、この場にいないようだ。

「もしかして、おまえら新入生?」

 気の抜けるような軽い声が届き、顔を上げる。一人の青年が私たちに近づいてきた。

 天然パーマなのか明るい髪の毛先がふわふわと揺れる。大きいパーカーをラフに着こなし、細い瞳で無邪気に笑った。一八〇センチはある大柄だが、子犬を思わせるあどけなさを感じる。

「俺、天草(アマクサ)。俺も一年なんだよ。よろしくな」

 軽く挨拶すると、パーマの彼、天草は手に持っていた袋から何かを取り出して差し出す。

「これ、あの駅近くの、何だっけ……超並んでる和菓子屋のどら焼きだって。あとふたつだったからよ。ギリギリ間に合って良かったな」

「あ、ありがとう」

 流される形で、どら焼きを受け取った。彼も新入生でありながら、上級生のように振る舞うその姿が、なんだか妙だ。

「お前ら、学部どこよ?」

「えっと、私らは法学部……」

「マジ! 俺も俺も!」
 答えた途端、天草は目を見開きながら、自身を指差す。

「いま、ここにいる一年、だいたい理系のやつでよ。無性に心細かったんだよな〜。仲間がいてよかったぜ〜」

 私が一答えると五返すような勢いで天草は口を開く。

「今、先輩にカモな講義とか教えてもらってたんだ。おまえらも聞いてけよ。お菓子もジュースもすげーあるしよ」

 なっ、と言うと、天草は私たちを誘導するように歩き始める。
 私たちは、困惑しながらも彼の後について行った。

***