高校三年生の夏、父がビルから飛び降りた。
理由はわからない。朝早くに家を出て、夜に帰宅する生活だったので、あまり顔を合わせる機会もなかったが、母や娘の私にも常に優しく、親戚と集まった際も一番場を盛り上げ、ムードメーカー的な存在だった。お酒の入った時は笑いが耐えない、そんな存在だった。
だからこそ、要因が見えなくて衝撃を受けた。
「仕事はな、大変な時もあるが、がんばった分、休みの日に飲む酒がすごくウマいんだ」
仕事から帰宅した父がよくビールを飲みながら口にしていた。そんな父が、突如、ビルから飛び降りて死を望んだほどに社会に絶望したことがあったのだろうか。
家庭環境が悪い印象はなかった。極稀に母と言い合いをしていたが、これくらいの衝突なんて普通のことだと思ってる。
しばらくは現実が受け入れられなかった。そして社会に絶望した。
父は何故、飛び降りたのか。
父は何故、私たちを置いていったのか。
あれだけ美味しそうに飲んでいたお酒ももう飲めないのに。私たちにも会えないのに。それでもなお死を選択したのか。
もはや、そんなことを考える余裕すらなかったのか。
「空は、のびのび広く、大きく育つようにってつけたんだぞ」
幼い頃、家族三人での花火大会の帰り、夜空を見上げながら父が言っていた言葉だ。当時、私は三歳。今でもぼんやり記憶にある程度でしかない。だが、この日見た空がとてもきれいで眩しくて、ずっと空だけは印象に残っていた。
当時は、年齢的にもまだ天体に興味を持つほどに関心がなかった。でも、今でもこの時の光景を覚えていた。だからこそ、物事がわかるようになった今、空を見上げている。
どんなに明るい人でも、闇を持っている。明るければ明るいほど暗い影ができるように、父にも陰があったのだろう。
それを娘の私には見せないように振る舞っていたのか。
子どもの私でも、さすがに死を選択する意味に良いものが含まれてるとは思えない。どんな内容であろうとも、この現実世界に絶望していなければ日常の中で死を選択することすら考えない。
私は怖くなった。
父を変えた社会に、この世界に、人との関わりに。
そして、自分に。
父が死にたいようには見えなかった。だけど死んだ。
私だって、明日には死にたいと思っているかもしれない。
明日の自分が、何を考えているかわからない。
月夜は自分のことは自分が一番知っていると言っていたが、私は自分のことが一番わからなかった。
だから父の死後、私はやりたいことを一番に優先するようになった。
それが、あの日見た空のように、誰かと空を見上げることだった。
大好きな星空を、大好きな仲間たちと見上げる。
もしかしたら、向こうから父も見てくれているかもしれない。だから私は、できるだけ空を見上げたかった。
***
「だから私は、周りが就職する中、私立大学に入って天文部に入ったんだよね。誰かと空を見上げたかった」
私は滔々と話していた。内容がかなりデリケートなので天草は黙ったまま聞いてくれていた。
一年生の頃は、部活に現実逃避していた。父の死後一周忌までは、四十九日やお盆で忙しかったが、できるだけ考えないようにしていた。
三年経った今、玄関の家族写真、リビングにある仏壇、そして父の利用していた部屋。
やっと冷静に、現実を受け入れることができるようになった。
「そうだったんだな……」
天草は、やり辛そうに反応する。言葉に困らせるとはわかっていたが、隠す気もなかった。
「確かに、明日何が起こるかわからねぇもんな。死にたいって思わなくても、事故で死ぬ可能性だってある。そう考えたら今やりたいことやっておかないともったいねぇよな。お金だって使わねぇともったいねぇぜ」
「そう。まぁ貯金はしてしまうけど」
私は苦笑する。そして表情が再び強張った。
「だからその……怖くなった。人と関わり過ぎると私もいつかそう思うんじゃないかって。実際、土屋さんが……」
「あの人は、おまえのせいじゃねぇ」
天草が、遮るように言った。
不器用だが、必死に現実を見せないような振る舞いだった。
「あの人は事故で亡くなったんだ。自分から死んだんじゃねぇよ。だから空は、関係ねぇ」
冷静に、落ち着かせるように口にする。
彼の気遣いから涙が溢れた。
私のやりたいことをすると決めたはずなのに、就活でメンタルが砕かれ、父や土屋さんの死が私に大きく影響している。こんなので上手く人と付き合えるわけがない。
思いやりも心に届かない。だってずっと私のせいだと思っているから。
就活も恋愛も友人関係もやりたいことも、全て中途半端。
色々な経験をしたことで、ノイズが混じっていた。こうなったら一度、白紙に戻すしかないのかもしれない。
「恒星。ごめん、私から言い出したのに、一旦なしにしてもいい?」
「え?」
「みんなの優しさが、受け入れられない自分が嫌なの……だから、少し、冷静になりたい」
そう言うと、私は、大好きな人の名前を呼ぶ。「恒星、私と別れてくれないかな」
第七セメスター 完