雨は上がり、日もすっかり暮れていた。雨粒によって大気のチリが落とされ、洗練された空気が漂っている。
都会の虹ノ宮とは違う環境に無意識に胸を開ける。
私はそのままホテル周囲を回った。
沙那の言っていた通りに、蓮は自ら輪を外れることはほぼない。だが、知らぬ間に眠っていることはある。
夜の気候が良いだけ、恐らくどこかで寝ているのではないのかと踏んでいた。
外は暗く、見知らぬ地なだけ自分が迷子にならないように気を払う。スマホの電波も立っているので安心だ。
ホテル裏は開けていて、奥には森があった。さすがに森の中まで入る勇気は出ない。
森付近にあるベンチに人影があると気付く。ホテルの電気が届かずに周囲は暗く、誰か判別できない。
私は恐る恐る近づく。静かな夜なだけ肝試しをしている感覚になり、胸がドクドクと脈を打った。
だが、蓮だとわかり胸を撫で下ろす。
ベンチに腰掛け、腕を組んで寝ている。傍には自販機で購入したのか、缶ジュースが置かれている。
もう幾度となく目にした体勢だ。まさに今睡眠中だと伝わる。
初めて来た地で安眠できるスペースを確保するとは、さすが眠ることに賭けているだけある。
私は彼に近づくとじっと顔を見る。切れ長の目は完全に閉じ、熟睡中だ。
今日一日私は、ずっと蓮のことでもやもやしていたにも関わらず、彼はお気楽に眠っているものだから無性に腹が立つ。鼻筋は通り、頬も引き締まった整った顔立ちだけに尚更だ。
だが、普段の彼の姿が見られたことに、どこか安堵していた。
「起こしてくれよ」
突如、声が響いて正気に戻る。
「起きてたの？」
「いま起きた。寝顔を見るとか悪趣味だ」
蓮は不愛想に頭を掻きながら言う。
「その言葉は、私が声を大にして言い返します」
ラジオ体操を始めた日のことを思い出していた。
「みんな心配していたんだよ。こんなところで寝てるなんてさ」
「寝るつもりじゃなかったんだけど」
「でも寝ていたじゃん」
「暗いと眠くなる」蓮は頭を掻く。
「スマホ握ったままだったし、私じゃなかったら盗られてたかもしれないよ。ほんと、無防備なんだから」
そう言うと、蓮はしばし黙り込む。
「無防備なのは、哀の方だから」
唐突な言葉に目を丸くする。
「私？」
「知らない土地なのに、こんな暗いところに一人で来てるじゃん。もう少し自覚持った方が良い」
「しっ心配して来てあげたのに……！」
「俺は襲われたりしないけど、哀は違うんだよ」
「そう言われても……すぐ近所だし、スマホだって持ってるし……危ない人だって」
「ここ」
「ここ？」
「俺だって、男なんだよ」
蓮は自身を指差し、まっすぐ私を見る。
その言葉の意味がわからずに混乱する。
「いや、でも、蓮は幼馴染だし……」
そう言うと、蓮は小さく息を吐く。
「…………そういうところが危ないって言ってんの。昔から知ってるからって、信じていたら、きっといつか痛い目を見る。言っておくけど」
蓮は立ち上がると、そのまま私に近づく。
「俺らは幼馴染以前に、男と女なんだよ」
「蓮…………？」
「あ〜〜いた！」
瑛一郎の叫ぶ声が届く。私はびくりと肩を飛び上がらせる。
「おい蓮、電話に出ろよ。心配しただろ」
祐介が困惑した調子で言う。
「悪い。何か、寝てたみたい」
「やっぱりか。おまえほんとどこでも寝るよなぁ」
直樹が苦笑しながら言う。
「哀ちゃんが見つけてくれたんだ」
沙那が笑顔で言う。気を遣ったものの、瑛一郎たちと合流したようだ。
「ったくほんとお騒がせな奴だな～。でもま、外出たい気持ちはわかる」
そう言って瑛一郎は大きく伸びをするが、そこで「すげー！」と声を上げた。
つられて空を見上げると、無数の星が輝いていた。
「わぁ、すご……！」
山が無いからか、地元で見る空よりも広く感じた。特に雨上がりで空気が澄み、星の輝きが際立っている。
皆各々に感嘆の声を漏らしていた。
「確かに風呂から外見えてたな。まさか蓮、空見る為に外出たのか？」
祐介が素朴に問う。蓮は聞こえないふりしてそっぽを向く。
「蓮くんって結構ロマンチストなんだ」
「でも地元じゃ、こんな空見られないだろ」
「確かにな～雨も降ってねぇし、せっかくだしちょっと探索しようぜ」
瑛一郎が親指を突き出して提案する。
「十分後には点呼だけど」祐介が冷静に言う。
「ガーン、じゃ五分だけ」
そう言うと、皆で周囲の探索を始めた。
「哀ちゃん眠い？」沙那が私を窺う。
「うっううん。ちょっと疲れたかなって…………」
「今日雨だったしね。身体だけじゃなくて気も疲れたよね」
沙那は同情するように笑う。
私の脳内は、蓮のことで渦巻いていた。
彼を心配して探したにも関わらず、先ほどの態度は一体何なのだ。
私はムッとして頬に手を当てる。
————俺らは幼馴染以前に、男と女なんだよ
私は観測者だ。私の立つ場所は、正確なデータを分析する為にも天候に左右されてはならない。常に周囲から一歩引いた安全地帯にいるはずなのだから、私自身が何かに巻き込まれることはないはずなんだ。
それなのに、何故あんなことを蓮は言ったんだろうか。
＊＊＊
夜が明け、二日目に入る。
修学旅行は二泊三日の為、中日である今日が一番予定が詰まっていた。
昨日と変わり、雨の気配は感じずに過ごしやすい気温だ。
山に遮られることのない日差しが肌に刺さる。もしかしたら地元よりも暑いかもしれない。
まさに今日は「修学旅行日和」と呼べる天候だった。
まずは札幌市内の観光。時計台は「がっかり観光名所」だなんて祐介から聞いてはいたが、失礼ながらも確かにわざわざ観に行くほどでもないな、と思った。
十二時に小樽に辿り着くと、班での自由行動が始まる。
昼食に海鮮丼を食べた後、各自別れることとなった。
「一時半には、またこの場所で集合な」
班長がそう叫ぶと、私たちは各々別れ始める。
「じゃあ蓮、先に祐介と回っとくからまた連絡して」
ごゆっくり、と私は蓮の肩を叩いて声をかける。
「あぁ、うん。了解」
蓮は短くそう言うと、下野さんに振り返る。
蓮と目が合った下野さんは、ほのかに頬を染めて緊張した面持ちで彼に近づく。二人は数回言葉を交わすと、そのまま歩き始めた。
茫然と彼らを見送っていたことに気づき、私も慌てて祐介との待ち合わせ場所まで向かう。
気付けば振り返っていた。
下野さんと歩く蓮の背中は、普段よりも伸びている。恐らく馴染みのない相手で気を遣っているのだろう。
だが、そんな彼の姿が、まるで私の知らない人のように見えて——————
「えっと…………何？」
蓮の声が届いて正気に戻る。
ハッとして状況を確認すると、いつの間にか蓮の元まで戻り、彼の服の裾を掴んでいた。
蓮も下野さんも、私も目を丸くする。
「あれ、ごめん……えっと、じゃ、またあとで」
私は動揺が隠せぬまま手を離す。
蓮と下野さんはしばし私を見るも、再び会話に戻り、歩き始めた。
私はいまだ困惑したまま、待ち合わせ場所まで向かう。
蓮が別人に見えた。そして、どこか遠くに行ってしまいそうに感じた。
だから私は————
自分が何を考えているのかがわからない。
だが、あの時蓮に行ってほしくない、と感じたのは事実だ。
だからこそ、雨でも降ればいいのに、なんて嫌なことを考えてしまった。
＊＊＊
待ち合わせ場所まで辿り着くと、すでに祐介が待っていた。
他の班の自由行動の人と話して時間を潰している。
近づくと祐介は私に気付く。
「おっす、って蓮は？」
祐介は辺りを見回す。そこで私は、下野さんのことを言っていなかったと思い出す。
だが祐介は、「あ、そうか、先に下野さんと一緒に回るんだったっけ」と口にした。
私は無言で振り向く。
彼に一言も下野さんのことを言っていない。蓮も自分で話したとは思えない。
聞いても無駄だとわかっているが、どうしても口に出る。「何で知ってるの？」
「何でだろう」
祐介は、相変わらずの態度であしらった。
むしろ彼に情報が回らないという考え方がおかしい。もはや説明をする手間が省けただけ楽だと思うべきだ。
「あーまぁ……そういうことなので、蓮から連絡が来るまでは二人だけど」
「全然。じゃ、適当に回るか」
まずはあのバターサンドの店行こうぜ、と祐介は歩き始める。
相変わらずの余裕な態度が彼のデフォルトだ。しかし、嫌味を感じさせないところがさすがだな、と改めて感じる。
だが、そこでふと蓮に言われたことを思い出す。
————無防備なのは、哀の方だから
————俺らは幼馴染以前に、男と女なんだよ
無意識に身体が強張った。
「どうかした？」
私の態度の変化に、祐介は即座に気付く。
「い、いや……何か最近、蓮が何考えているかわからなくない？」
私は無理やり話題を逸らす。
「蓮が何考えているかわからねぇのは前からだけど」祐介は肩を竦める。
「そうなんだけど……でも、最近は特に……祐介は何か知っていたりする？」
割と期待して尋ねたのだが、祐介は顎に手を当て「わからないなぁ」と答えた。
「祐介でもわからないことってあるんだ」
「俺はエスパーじゃないぞ」祐介は苦笑する。
「まぁ、蓮の場合、機嫌が良いか悪いかなんてものはだいたい態度でわかるけど、あいつ自身が何を考えているかなんてわからんな。口にしないんだから。俺は基本、直接聞いた一次情報しか信用しない」
「そうなんだよね。自分のこと、話さないよね」
「でもそれは前からじゃねーか。あいつの場合、眠たいだけの時もあるし。だからあんまり気にする必要ないって」
「ゆ、祐介がそう言うなら……」
私は頭を振って切り替える。
私たちは、バターサンドの有名なお菓子メーカーの店に入る。
北海道は、乳製品やチョコレートが有名なだけにスイーツが魅力的だった。チーズケーキや生チョコ、ミルク製品のアイスなど、どの店も力が入っている。
とうもろこしやじゃがいも、海鮮も有名なことから、芋を使ったスナック菓子や魚介あられなどもたくさんあった。
「美味しそう……」
私は、チョコレートの並ぶショーケースを見ながら呟く。
「やっぱ北海道ってすげえな。どれもうまそうだ。まぁ有名どころは全部買ってくか」
その為に金も結構持ってきたし、と祐介は言う。美子のことを思っているのか、その眼差しは温かい。
適当に選んでいたが、前方に見慣れた姿を見つけてあっと声が出る。
それから、何となく隣を見る。
「祐介、ハミゴにされてない？」
「は？」
「直樹と沙那」
そう言って前方を指差す。そこには直樹と沙那の姿があった。祐介は確か、二人の班長だったはずだ。
直樹はやりずらそうに首を捻っているが、隣の沙那は楽しそうに笑っている。
こんな二人の姿を奏多が見たら嫉妬するに違いない。
二人に気付いた祐介は特に動じず、むしろ「あぁ」と頬を緩めた。
「班長の粋な計らいってやつかな」
「え？」
「沙那に頼まれたんだよ。自由行動の時、あいつと二人にしてくれって」
予想外の事実だ。私は目を見開いて祐介を見る。
彼は、相変わらず笑っていた。
「俺が自由行動回ろうって言ったのは、俺の為であり沙那の為でもあったんだ」
「どういう意味？」
一人だけ楽しそうにしている祐介に解答を急かすように問う。
だが相変わらず彼は余裕綽々な態度だ。
「沙那ってさ、俺らのことは基本的に『くん』か『さん』付けをするだろ？」
「確かに」
「でもな、あいつだけは『直樹』呼びなんだよ」
「え、そうだっけ？」
私は記憶を呼び起こす。
――――だって今日は二年生しかいないんだし、メンバーが瑛一郎くんと祐介くんと蓮くん、それに直樹の四人だからさ……
「……そういえば」
「二人は昔、付き合っていたんだ」
私は静止する。
「初耳なんだけど……」
「まぁそうだろうな。俺らと会う前の話だし」
私たちと奏多らとの交流が始まったのは、緑法館に来た一年前からだ。身内であるだけ奏多とは毎年会ってはいたものの、それ以前は、互いの幼馴染たちとは顔すら合わせていなかった。
「何より二人は必死で隠してたらしいしな。まぁでも、奏多に瑛一郎に萌さんだろ。二人が少し気を付ければ、バレることもないだろうさ」祐介は肩を竦める。
そもそも奏多がそんな事実を知っていたら、態度でわかるはずだ。
出会う前の情報を何故祐介が知っているのかはもう言及しないが、そこでふと疑問に思う。