「すげえ〜〜袋パンパンだ!」
前座席に座っている瑛一郎は、目を輝かせながらポテトチップスの袋を掲げる。確かに普段見るよりも袋が膨らんでいた。
「そんなことで喜ぶの、瑛一郎ぐらいしかいない」
蓮は無愛想に返す。
「でもおもしろいだろ。こんな膨らむんだったら、大量に買っといても良かったな」
「大量に買ってどうすんのさ」
蓮は無愛想ながらも反応を示す。
蓮は何だかんだ付き合いが良い。渚の無茶振りにも、小言を言いながらも対応する。恐らく渚自身もそれをわかっているからこそ、多少図々しく出ているところもあるのだろう。
そう、だからこそ、いきなり下野さんと自由行動を回ると言い始めたのも、彼の性格からきているのだと自分を説得させようとしていた。
前座席の二人の会話に、隣の下野さんも楽しそうに頬を緩める。
「二人、楽しそうだね」
私は、警戒心を持たれないようさりげなく話を振る。
心というのは気まぐれで、ほんの些細な環境で変化するものだ。その為、繊細に扱う必要があった。
私の言葉が意外だったのか、下野さんは僅かに目を見開くもすぐに表情を崩した。
「だよね。何か風見くんは柳くんの保護者みたい」
「確かに。でも、蓮は常に寝ているから赤ちゃんでもある」
「誰が赤ちゃんだ」
私たちの会話が聞こえていたのか、蓮は怪訝な顔でこちらに振り返る。隣の瑛一郎も、何だ何だとこちらを向く。
「き、聞こえてた?」
「丸聞こえだ」
「本当、地獄耳だよね」
「それ褒めてるのか」
「そうだよな、こいつは赤ちゃん。俺らはいつも、赤子の面倒みてやってるんだ」
瑛一郎は嬉々として蓮の肩を叩く。
蓮は「おまえにだけは言われたくねぇ」と険しい顔で隣を見る。
「風見くん、いつも眠そうにしているからね」
下野さんは、ふふっと優しく笑った。
そんな下野さんを蓮は一瞥すると、やりずらそうに首を掻いて前方に視線を戻した。
隣の瑛一郎も、蓮を赤子扱いするようによちよち言いながら身体を戻す。
私は、いまだ楽しそうに笑っている下野さんに振り向く。
「蓮は眠たいのがデフォルトだから、テンションが低そうに見えてもあまり気にしないでね」
「うん、大丈夫。それにすでに満足だから」
下野さんは、幸せそうに笑った。
普段とは違う場であるだけに、少し踏み込んだことを尋ねても大丈夫だろうか。お酒の場だけの話というやつだ。
せっかく隣の席だ。クラス内ではあまり話す機会はなかったが、予報が当たっていたのか確認してみよう。
「蓮のことはいつから?」
前の座席に届かないように小声で尋ねると、下野さんは恥ずかしそうに俯く。長めの前髪で目が隠れた。
「一年生の時から、同じクラスだったから……」
「そんなに前から……!」
「うん、研修旅行の時は勇気が出せなかったから」
一年の研修旅行の時に水族館に行った際に発生した、気になる人を誘うイベントのことだろう。
「今回でこういった行事は最後でしょ。だからさ……」
下野さんは滔々と語る。その顔は幸せそうで、見ているこちらまで思わず笑顔になるほどだった。
しかし、何故か心に靄がかかった。
「……蓮の気が変わってよかったね」
意図せずに口に出ていた。
私の言葉を聞いた下野さんは、僅かに目を見開いた。
「あ、そっか、そうだよね。私が一度断わられているのわかるよね……でももしかしてずっと悩んでくれていたのかなって思って、さらに嬉しくなったんだ」
下野さんは、過去のことは気にしていない様子だった。
そんな彼女の顔を見ると、ますます心に靄がかかった。
私は、恋愛をしている人を観測するのが好きだった。
羨ましいなという嫉妬は一切感じない。ましてや自己投影をしているわけでもない。
恋愛をしている人は数倍輝いて見え、観測しているだけで気分が良くなる。
ただ純粋に、相手を見守りたかったのだ。
だが、今はそんな感情とは正反対の種類だった。
蓮が、何を考えているかわからないからだ。
彼は口数が少ないだけに、感情がわかりずらいところがあった。それは昔から理解しているはずなのに、何故か下野さんの件になると見過ごすことができていなかった。
彼女の誘いに答えた時の蓮は、全くの別人に見えたことが所以なのだろう。
とは言うものの、今の蓮は普段と変わらない。
あの一瞬だけだから、私の観測の誤差だと信じたかった。
あっという間に二時間が経った。
私たちは重い腰を上げて降機したが、そこで目を見張った。
***
「嘘だろ……雨…………」
瑛一郎は、途方に暮れたように呟く。頭に乗せられたサングラスも虚しく輝いていた。
着陸態勢に入る為に、雲の下へと航空機が下がった際、窓に水滴がぽつぽつとつき始めていたので懸念は生じていた。
案の定、降機する時には、メガネを掛けている人には鬱陶しいほどの軽雨となっていた。
他の皆も、空の暗さに次々溜息を吐く。
私も心なし気が落ちる。今日はこのまま動物園に向かう予定なのだ。
思いもむなしく、動物園に辿り着く頃には、傘が必要なほどに雨が降ってきていた。
こんなきつい雨では、さすがに動物も外に出ていないだろう。
「一応開けてくれてるみたいだし、回ろうか」
引率の教員が、やりづらそうに説明する。
私たちは教員の先導に従って、動物園の中へと入った。
「やっぱり、動物みんな屋根のある中にひっこんじゃってるね……」
私は、閑散とした柵の中を見回しながら呟く。
「そうだよね。ま、残念だけど、天候ばかりは仕方ない」
同じ班の奥野さんが、諦めたように言う。
「お天道様に見放されちまったな~」
瑛一郎は悔しそうに頭を抱える。
昨日から北海道はにわか雨予報がついていたので、あらかた予測はできていた。その為、雨具は所持している。
とはいうものの、動物園で雨はやるせない。現状と感情は別物だ。
「あ、でも、フラミンゴは外に出てるぞ」
瑛一郎は前方の柵を指差す。確かにピンク色の羽毛に、片足立ちの正しくフラミンゴが姿を見せていた。
「蓮、こっち来てみろよ」
「…………何?」
「おいまさかこんな雨の中、寝てたのか? まぁでも、赤ちゃんはお昼寝の時間だな~」
瑛一郎はやいやいと揶揄う。蓮は怪訝な顔で彼を睨む。
私はチラリと蓮を窺う。
渋々瑛一郎に付き合っているが、普段とはひとつ、決定的に違うところがあった。
今の蓮は、眠気から反応が遅れたのではない。
基本的に眠い時は、顔を下げて瞼が閉じかかっている。
しかし今はむしろ顔を上げ、目も開き、どこか遠く一点を見つめているような眼差しだ。
まるであの時のような、人狼をした後のような————
「雨、最悪だ~」
奥野さんのぼやく声が遠くで響く。私の身体全体が謎の霧で覆われているように感じた。
ただこれは、「幼馴染」であるからこそ、発生した霧なんだろうと感じていた。
***
本日の予定は全て終え、各自自由時間となっていた。
夕食はジンギスカンだった。
昔、お土産で頂いたジンギスカン味の甘いお菓子を食べたせいで、中々気が進まなかったのだが、本物はそんな心配もなく美味しかった。
中央の盛り上がった鉄板で食べるラム肉も癖を感じず、野菜も豊富であっさりと食べることができた。
寮生活に慣れているとはいえ、普段より少しランクアップした環境なだけに気分が上がる。
大浴場での風呂も終え、風呂場の前のソファで頭を休ませていた。
「あっ、哀ちゃん。いた!」
靄のかかった空間に、鈴のような澄んだ音が響く。振り向くと沙那がいた。
髪は濡れ、肩にタオルをかけている。プリントTシャツのラフな姿も、彼女だと清楚に見えるから不思議なものだ。
「瑛一郎くんがまたみんなでトランプしようって言ってたんだけど、哀ちゃんもどう?」
今回はダウトらしい、と沙那は笑って説明する。
「うん。私でよければ」
「もちろんだよ。それに哀ちゃんがいないと私が気まずいっていうか……」
「気まずい?」
「だって今日は二年生しかいないし、メンバーが瑛一郎くんと祐介くんと蓮くん、それに直樹の四人だからさ……」
「あぁ」私は苦笑する。
いくら幼馴染とはいえど、確かに女子一人は気まずいとはわかる。
「さすがにちょっと恥ずかしいかなぁって……だから哀ちゃんも来てくれると嬉しいな」
沙那も素直に言う。
正直、今は蓮に会いたくなかったが、さすがに沙那に同情した為、腰を上げてついていく。
***
集合場所であるロビーには、すでに瑛一郎、祐介、直樹が集まっていた。皆、風呂は済ませているようで部屋着に着替えている。
瑛一郎と直樹はスピードを行い、祐介はスマホを耳に当てていた。
「はい、上がり~」
直樹は、手札を山場に乗せて手を振った。
「速すぎるだろ!」瑛一郎が叫ぶ。
「それがスピードだよ」
「運動不足だな」
スマホを耳に当てていた祐介は、間髪入れずに突っ込む。
その言葉を聞いた瑛一郎は、火が付いたのか眉間に皺を寄せて「舐めるなよ」と立ち上がる。
「俺はあれから毎日のトレーニングを三倍に増やしたんだ。おまえらにリベンジする日もそう遅くはない」
「でもスピードは遅い」
「それとこれとは別だ!」
瑛一郎は直樹の呟きに、指を差して過剰に反応した。
「本当、馬鹿だよね」
沙那は楽しそうに笑う。
「沙那、それ褒めてる?」
「褒めてる」
沙那は純度百パーセントの笑顔で答えた。
「あ、沙那ら。来てたなら声かけろよ!」
瑛一郎は、私たちに気付くと唇を尖らせて言う。
「ごめんごめん。なんか邪魔したら悪いかなって」
「無駄に負けちまっただろ。で、後は蓮だ。どうだ?」
そう言って瑛一郎は祐介を見る。
「全然。メッセージも未読」
祐介はスマホを軽く振る。
「部屋にもいないんだよな~。おまえらなんか心辺りある?」
瑛一郎は私たちを見る。
「蓮がいないの?」
「あぁ。風呂まで一緒だったんだけど、自販機行くって言ってから」
「そんな迷子になるほど広くもないのに……」
「いやわかんねーよ。だってあいつ、赤ちゃんだから」
瑛一郎は愉快そうに笑う。
さすがにホテル内で迷子ということもないだろうが、今までそういったことがなかっただけに不安になる。最近の蓮はどうしたのだ。
「何か情報はないの?」
私は祐介を見る。
「売店行くって言ってた何人かに聞いたけど、蓮は見てないって言うんだよなぁ」
「俺もさっきまでロビー歩いてたけど、それらしき人は見なかったな」
直樹も顎に手を当てて答える。
瑛一郎は腕を組んで時計を見る。
「時間もあれだしちょっと捜索すっか。俺ら男子ホテル見てくるし、二人は女子ホテルで」
「さすがにこっちにはいないと思うけど……」沙那が苦笑する。
「ま、私たちはロビーと外の近所、見てみるね」
「あぁ。何かうちの子が迷惑かけて悪いな」
これはお説教だ、と瑛一郎は息巻く。
私たちはそれぞれわかれて捜索を始めた。
***
「珍しいね、蓮くんが迷子って」
ロビー内を捜索している時に、沙那が呟く。
「瑛一郎くんが輪から飛び出すことはよくあるけど、蓮くんって基本的に動かないじゃん?」
「確かに動かない」
あまりにも物理的な言い方に苦笑する。嫌味だと感じられないところが彼女の凄さだ。
「私、外見てくるから、沙那は大浴場の方見てもらっていい?」
私は提案する。風呂上りで普段以上に純潔な彼女に、外に出てもらうのは気が引けた。
「うん。ありがとう」沙那は笑顔で答える。
手を振ってわかれると、靴を履き替えて外に出た。
***