Day7「記録的な大雨で土砂災害の恐れがあります」①




二年男子寮から退出し、私の部屋に避難していた。

美子は、いまだ肩を震わせて涙を流している。
当然だ。普段何ごとにも動じずに落ち着いた態度の兄が、いきなり豹変して人を殴ったのだから怖いに決まっている。私でさえ恐怖を感じたのだから、常に隣にいた美子が怖いと感じるのも無理は無い。
それに二人は――――。

渚と美子を自室に連れてきたものの、皆、口を開こうとしなかった。今見たことが現実なのか受け入れるのに時間がかかっていた。
情けなくも私では、瑛一郎のように気の利く言葉をかけることができなかった。

静かな部屋に、美子の綴りなく声とカチカチと時計の針の動く音だけが響いている。

こんなにも簡単に関係が急変するものなのか――――
先週までは何事もなく過ごしていたはずなのに、一体何が原因――――?

――――いや、もうわかっている。

元はといえば、全部――――

「私の……せいだ…………」

耐え切れずに呟いていた。
私の言葉に、渚は顔を上げて反応する。

「私のせいだよ……関係が変わりたくないって願ってしまったから……」

直樹が、祐介と美子の二人の関係を口にしたのは、私が彼に話を聞いたからだ。
元々の発端は、蓮が私にキスをしたことだが、それも蓮に対して不安を抱いたことで、彼の部屋に訪れたことが原因だ。

「何で、哀のせい……?」

渚は困惑した調子で言う。
珍しく彼女も動揺していることで余計に不安になった。

常に気だるげで口数の少ない蓮が、突如あんな行動を取ったのも、
常に余裕な振る舞いの祐介が、いきなり激昂して直樹を殴ったのも、
常にハイテンションのうるさい渚が、口を閉ざしているのも、
常にのんびりとお気楽な美子が、身を縮めて泣いているのも、

皆みんないつもと違う顔で、受け入れられていない。
全部、変化を恐れたせいだ。

私が海へと流れる川の水をせき止めたせいで、皆の顔色を変えてしまっていた。

どれだけの時間、立ち尽くしていたかわからない。
突如、ノック音が響いたことで正気に戻る。

ドアに向かうと、祐介が立っていた。

「ゆ、祐介……」

「美子、いるんだろう?」

祐介は冷静に問う。その声は普段よく聞く落ち着いたものに戻っていた。
ドアを大きく開けて彼を迎い入れる。

目を擦っていた美子は、祐介の姿を見るとびくりと肩を震わせた。
その過剰な反応に、祐介は眉を下げる。

「美子……さっきは恐いところ見せてしまってごめん。ちゃんと話すよ。だからさ…………そう構えないでくれ」

祐介は、普段以上に優しい声色で声をかける。だがその顔は僅かに強張り、痛々しく感じた。
美子は呆然と彼を見たまま、反応を示さない。

彼女の反応を予測していたのか、祐介は動じずにポケットからスマホを取り出す。

「さっき母さんたちにも電話したよ。今晩ちゃんと話すから。それまでの間、俺と一緒にいてくれないか?」

美子はしばらく静止するも、意を決したのか小さく頷いて立ち上がる。

部屋を出る際に祐介は私を見る。

「悪いな、身内の問題に巻き込んで。明日にでも説明するから。少しだけ時間、もらっていいか?」

「いやいや……私たちのことは全然気にしないで。今は美子と話をしてあげて」
私はできるだけ平静を保って答える。

祐介は目を細めて笑うと、美子の背中を擦ってこの場から去った。

部屋に残った私と渚は、いまだ呆然と立ちつくしていた。

「…………直くんよ……」
渚はポツリと呟く。

「直樹?」

「何で直くんは、二人が血が繋がってないって知っていたわけ?」

「あ、そういえば」

先ほどまで祐介たちのことばかり考えていたので、肝心な点を見落としていた。

「そんな重大なことあたしたちですら知らなかったのに、ポッと出のあいつが知っているってずるいじゃない」

「ず、ずるいって……」

「まずは、あいつの事情聴取からよ!」

渚は少しだけ普段の調子を取り戻すと、つかつかと足音を鳴らして立ち上がる。
私も渚の後に続いて部屋を後にした。

***

 

二年男子寮の階に向かっていた。
すでに解散している可能性もあるが、瑛一郎が「ひとまず俺の部屋に来い」と言っていただけに、直樹は彼の部屋にいるだろうと踏んでいた。

瑛一郎の部屋前まで辿り着くと、コンコンッとノックをする。
すぐにドアが開かれた。

「あ、哀と渚ちゃん、やっぱり来たな」
瑛一郎は、普段のお気楽な調子で言う。

「さっき祐介が美子ちゃんのとこに行くって言ってたから、入れ替わりで来るかなって思ってたんだ。ま~入れよ」

そう言うと、瑛一郎は大きくドアを開けて歓迎する。
裏表のない彼のさっぱりした性格も、こういった場面では心丈夫なものだ。

部屋に入ると、ベッド上に直樹が座っていた。頬に氷の入った袋を当てている。
瑛一郎が説得してくれたのか、今は冷静を取り戻して落ち着いた表情をしていた。

「ま、ひとまずこっちは一件落着ってことで。大丈夫だった? 美子ちゃん」

瑛一郎は、床に腰を下ろしながら言う。美子の名前が飛び出たことで、直樹は僅かに反応する。

「うん。もう落ち着いていたよ。今は祐介と一緒にいるし」

「それならよかった。悪いな。あいつがまさかあんな感情的になるとは思わなんだ」

「いやいや、むしろ瑛一郎が来てくれて助かったよ……」

彼は全く事情を知らなかったはずなのに、あれほど殺気立っていた二人を冷静にさせた。
もしかして瑛一郎はすごい人なのかもしれない、とすら思えてきた。「吊り橋効果」というものは恐ろしい。
常に安定した変わらぬ存在の強さを身に染みて感じた。

「あたしたちが来たってことは、何をしに来たかはわかってるでしょ?」

渚は少し興奮気味に尋ねる。直樹は無言のまま下を向いていた。

「直くん、教えてよ。何で直くんは二人のことを知っていたの?」

渚の言葉に、直樹はやりずらそうに口を噤む。
しかし腹を決めたのか、大きく息を吐くと顔を上げた。

「偶然だよ、偶然。偶然見てしまったというか」

そう言うと、直樹は背筋を伸ばして居住まいを正す。

「この寮に入るって決まった一年前の春に、ここがどんな街か回ってたんだ。俺らは実家が市外だし、ましてや俺や姉貴にとったら、関西にいた期間の方が長いのもあって。そんで施設前に偶然、あいつがいるのを見たんだ」

「施設?」

「児童養護施設やな」
直樹はあっさりと言う。

「虹ノ宮にそんな施設が……」

「哀ちゃんたちって市内に実家があるんやろ?それに虹ノ宮は都心やし、まぁ妥当ではあるわな」
直樹は顎を擦りながら言う。

「当時はお互い顔見知りじゃなかったけど、後から奏多通じて哀ちゃんたちと話すようになって、その時にあの施設の前にいたのが祐介だってわかったんだよ」

「よ、よく覚えていたね」

「同じ学校の制服着た、同年齢くらいの奴が一人で施設の前にいたら、ちょっとは記憶に残るやろ」
直樹は肩を竦めて言う。

「正直、美子ちゃんのことが気になっていたのもあって、何となく祐介にその話を振ったんだけど、その瞬間、あいつは血相変えて俺に口出しはするなと言ったんだ。でもまさか、哀ちゃんたちはともかく、いまだに美子ちゃんにすら言ってなかったとは思っていなかったんよ」

「本当に知らなかったよ……」渚は途方に暮れたように呟く。

「まぁ今、考えるとそれもあって、祐介は俺を露骨に嫌っていたんだろうな」
直樹は開き直ったように言う。

昔から仲が良い祐介と美子だが、実の兄妹ではなかった。
今まで二人は、容姿や性格の違いから兄妹というよりもカップルのように感じていたが、血の繋がりがないとなれば、確かにそれも納得できる。

そこでふと、ある疑問点が浮上した。

「ねぇ……だから直樹はムキになっていたの?」私は恐る恐る問う。

修学旅行の時や、直樹と話をしている時に引っかかっていたことだ。そもそもこのことを口にするきっかけとなった会話の内容だ。

――――ないとは言わないけど、でもほぼないだろな。だって祐介がいるし

――――でも、二人は兄妹なんだからさ……

――――だって祐介と美子ちゃん……血、繋がってないじゃん

私の言葉に、直樹は無言で顔を向ける。

「美子は今の今まで知らなかったけど、祐介は美子が養女だって知っていたんでしょ。だから直樹は――――祐介が『強敵』だって認識していたんじゃないの?」

祐介の美子を想う気持ちは、誰よりも温かくてまっすぐで、理想の兄像のように見えていた。
だけど血縁関係ではないことから、法律上、結婚だってできる。

だから直樹は祐介を美子の「兄」ではなく、一人の「強敵」として捉えていたのではないのか。

それならば、直樹が自棄になっていた理由も納得できる。

到底、敵いはしない距離にいる人物が相手なのだから。

直樹は目を閉じてしばらく思考するも、小さく息を吐く。

「そうだな。だってあいつが美子ちゃんを見る目って、俺から見れば兄じゃなくて……」

「そ、そんなのだめだよ!」

突如、渚が勢いよく立ち上がる。
室内にいる私、瑛一郎、直樹は目を丸くして彼女を見る。

「だって、二人は血は繋がっていなくても兄妹でしょ? 美子だってそう思っていたんだから…………」

「いや、それとこれとは別で……」

「そんなの、そんなのありえないよ……あたし絶対、認めないから!」

そう叫ぶと、渚はバンッとドアを開けてこの場を去った。
私たちは呆気に取られていた。

元々観測者であったことから、人間観察は人並み以上長けているとは自負している。
鋭い直樹はともかく、瑛一郎でさえ混乱しているのだから、きっと皆、同じ心境なのだろう。

「渚ちゃんて、もしかして……………………祐介のことが好きなのか?」

瑛一郎のポツリと呟く声が室内に響いた。

***