その瞬間、後ろから物音がした。
振り返ると、近所のおばちゃんがこちらを見ていた。夜まで近所のスーパーでパート仕事をしている主婦だ。
「さっきから声がすると思っていたら君たちだったのかい、若いっていいねぇ」
おばちゃんは呑気に言う。私とリョウヘイは目を合わせた。
私の前には、明らかにおかしい存在が空中に浮いている。しかしおばちゃんは一目もくれない。もしかして見えてないのだろうか。
だがそこで、おばちゃんが口を開く。
「ところでさっきから指輪とか、恋愛ゲームとか、一体何のことを……」
と、ここまで言った瞬間、彼女は何かに撃たれたように身体を反らして倒れた。
私たちは目を丸くしてそばに駆け寄るが、そこで見たものに驚愕した。
おばさんの頭には、黄色の矢が刺さっていた。
「な、何これ……」
しかし数秒経つと、矢は音も立てずに消えた。
「何だよ、今の……」
二人して唖然としていたが、はっと我に返り、おばちゃんの様子を窺う。しかし、特に異常はないのか、胸を大きく上下して熟睡していた。
「……ご覧のように、少しでも情報が漏れた場合は、問答無用に記憶を消させていただきます」
後ろから響いた声に振り返ると、子どもは弓で矢を射った後のような体勢をしていた。
「今はまだ説明中ですのでノーカンですが、今後、このようなことが起こった場合は、ペナルティ扱いとなりますのでお気をつけてください」
子どもは、にこっと笑って向き直る。
「身体に害はありません。しばらくすると何事もなく起きるでしょう。我々は恋人同士の仲を後押しする為に生み出された概念です。物理的に傷つけることはできません」
その言葉に内心安堵するも、どこかデジャウを感じて眉をひそめた。
「しかし、だからこそ気が抜けて口を滑らせる者が多いのでしょうね。……先ほどのナナミさんのように」
子どもが最後の言葉を言った瞬間、脳内に稲妻が走る。あまりの衝撃に頭を抱えてしゃがみこんだ。
脳裏には、失われた記憶が次々フラッシュバックしていた。
思い出した。先ほどまで何があったのか。
***
『助けて』
届いたメッセージに、思考が停止した。
急いでナナミに電話をするが繋がらない。
漠然とした不安が襲う。ナナミの家はここから十五分ほどの距離なので、直接会いに行った方が早い。
その考えに至った時には、家を飛び出していた。
ナナミの部屋の呼び鈴を鳴らすと、僅かに扉が開いて彼女が顔を覗かせる。
「ナナミ……!」
顔が見られて少し安堵する。しかし、扉の向こうのナナミは、普段のパッション弾ける彼女と打って変わり、肩に上着を羽織り、身を縮めていた。
「ユイ……ごめんね、わざわざ…」消えそうな声だ。
「ど、どうしたの?」
「うん、とりあえず、中入ってもらってもいい?」
ナナミはドアを開けた。私は彼女の腕をくぐって中に入る。
部屋の中は電気がついておらずに、荷物が散乱していた。彼氏が突然来てもいいように、と常に部屋をきれいにしていただけに違和感を感じた。
振り返ると、ナナミは俯いたままで、何も話す気配が見られない。
「本当にどうしたの?」
焦燥に駆られ、発言を急かすように再度問いかけた。
ナナミは肩をびくっと痙攣させ、「言えないの……」と呟いた。
「言えない?」
「言っちゃ、だめなの」ナナミは縋るような目で言う。
「今は何も言えないけど、でも、ユイがそばにいてくれるだけで安心するの……」
私の手を取るナナミの手は、小刻みに震えていた。
リビングにあるソファに腰かける。先ほどの言葉を最後に、ナナミは再び口を閉ざした。
去年、うちの両親が亡くなった後、ナナミはずっと私のそばで話し続けてくれた。彼女は元から話すのが好きな性格ではあったが、バイト先の笑い話や彼氏の愚痴など、あえて両親を思い出させないように気を遣ってくれていた。
口下手な私には、ナナミのように気を紛らわすような話はできないが、震える手を握り、そばにいることはできる。
しばらくすると、ナナミは落ち着きを取り戻し、手の震えも収まった。彼女を一瞥すると、先ほどよりも表情が和らいでいた。少しでも役に立てたのかな、と安堵して視線を落とす。
そこでふと気づく。
ナナミの左手薬指につけられている指輪のカラーストーンの色が変わっていた。
「あれ?指輪変わった?」
何気なく口にした、つもりだった。
その言葉を聞いた彼女は、再び顔色を変えて怯え始めた。
「ど、どうしたのナナミ……」
彼女の反応は見るからに異常だ。
「ユイも、半端な覚悟で『永遠』を誓ったらだめだよ」ナナミは焦点が定まらない目で言う。
私は困惑して「ど、どういうこと……?」と尋ねた。ナナミが何を言いたいのかわからない。
結論を促すように向き直ったそのタイミングで、彼女も口を開いた。
「この指輪を外すと、殺されてしまうの」
その瞬間、彼女は背を逸らして床に倒れた。数秒遅れて、ドサッという音が私の耳に届く。
「ナナミ!?」
慌てて彼女のそばに近寄るが、思わず静止する。
ナナミの頭には、赤色の矢が刺さっていた。
「な、何これ……」
頭に刺さっている赤色の矢。血は出ていないが、明らかに原因はこれだ。
触れようと手を伸ばすが、その瞬間、音も立てずに消失した。
「あれ、何で……?」
呆気に取られたが、静止したままのナナミを見て我に返る。名前を呼びながら身体を揺するが、微動だにしない。
ポケットからスマホを取り出す。ひとまず救急車だ。
意に反して手はぶるぶる震え、止まれと念じても一向に収まらない。たった三桁にも関わらず、中々打てないでいた。
やっとのことで繋がり、耳に当てて顔を上げた瞬間に、その存在に気づく。スマホは物音を立てて床に転げた。
私の目前には、弓を構えた子どもが立っていた。
「だ、誰――――――」
最後まで口にする前に、頭が真っ白になった。何かに撃たれたような衝撃が走るが、不思議と痛みは感じない。跳ね上がった私の身体は、重力により床に打ちつけられ、意識が遠退く。
床に転がるスマホから「どうしましたか?大丈夫ですか?」と焦燥気味に話す声が室内に響くが、応答できない。
先ほどの弓を構えた子どもに、どこか既視感を感じた。薄れゆく意識の中、必死に記憶をかき集める。
そうだ。確か、アプリの――――――
そこで完全に、意識が途切れた。
***
そうだ。ナナミに指輪について尋ねた瞬間、彼女は矢のようなものに射られて意識を失った。そして今ここで話す子どもがあの場にいた。
ナナミは条件を破ったことで『恋愛ゲーム』に参加させられていた。しかし私にゲームについて話してしまい、ペナルティを受けた。
私は記憶を消されたんだ。何故思い出せたのかわからないが、そのおかげで記憶が繋がった。
とはいえ、状況が変わる訳じゃない。
『指輪を外してはいけない」という条件を破ると、参加させられる『恋愛ゲーム』。
少なくとも、ナナミが倒れた原因は判明した。条件を破ったことで何かが起こるとは覚悟していたものの、このままでは私もゲームに参加させられる。
しかし、私は根本から理解していなかった。
「恋愛したことないのに、できるわけない……」
子どもは私を一瞥すると、口元に人差し指を立てる。
「カウント条件は『唇へのキス』です。中々、親密な関係にならないとできるものじゃないでしょう。その為、この行為を判断基準にしております」
「待て待て!そんなふざけたゲーム、するわけねぇだろ!」
私が反応するよりも先にリョウヘイが激昂する。
「ですよね。納得できませんよね」
「舐めてんのか?」
リョウヘイの柄の悪い態度にも微塵も動じずに、子どもは淡々と切り出す。
「そんなあなたたちの為に、一度だけチャンスを与えましょう」
チャンスという言葉に、私もリョウヘイも聞き耳を立てた。
「もしも、今ここでユイさんが再度指輪をつけ、お二人の『永遠』を誓い直されますと、ゲーム不参加となり、今まで通り『永遠の特権』を受けられる日常に戻ります。ですが、一度裏切られましたので、次に外すこととなった場合は、お二人共にペナルティが与えられます」
私たちは息を呑む。そして自然と私の持つ指輪に目を向けた。
その瞬間、先ほどまで黄色だった指輪がピンク色に戻る。
「制限時間は六十秒です。その間にどちらか選択をしてください」
「ちょっと……!」
「では、スタート!」
子どもが指をくるりと回すと同時に、指輪のカラーストーンが点滅を始めた。
私は困惑していた。
このままだと『恋愛ゲーム』に参加させられる。
私は今まで恋愛を避けていた未経験者だ。それなのに、三ヶ月で三人の異性を好きになって、キスまでできる関係に持っていくだなんて、クリアできる訳がない。
でも、指輪をつけたら今後一生――――
「指輪をつけろよ」
「え?」
唐突に響いた声に、私は顔を上げる。
リョウヘイは、私の顔を真っ直ぐ見据えていた。
「何でおまえに協力したかわかるか?こんな妙な指輪でもつけたのかわかるか?勘違いされたところで、全く困らねーからだよ」
「リョ、リョウヘイ……?」
「あと四十秒~」
「えっと、どういう……」
「オレはずっとおまえが好きだったんだよ」
私が尋ねるよりも前に、リョウヘイははっきりと口にした。
見たことのない彼の真剣な顔に、私は言葉を失った。
「おまえが恋人つくらねぇって言ってたから、ずっと抑えてたんだよ。不本意だが、こんな状況なら話は別だ」
リョウヘイは頭を掻きながら言うと、先ほどよりも力強い目で私を見た。
「恋愛経験のねぇおまえがクリアできると思うのか?今までの生活振り返っても難しいと思うだろ。指輪さえ外さなきゃ問題ねぇんだ。今までと変わらねぇはずだ」
リョウヘイは、丁寧にゆっくりとした声で私を諭す。そのおかげで、少し冷静に物事を考えられるようになった。
確かにリョウヘイの言う通りに、指輪をつければゲームに参加することなく、優待の利用できる日常に戻る。
今までもリョウヘイと一緒にいた。これからだって――――――。
「あと十秒~」
そこで脳内に警鐘が鳴る。
今後一度でも指輪を外したら、私だけでなくリョウヘイまでペナルティを受ける。ただでさえ私から巻き込んでおきながら、この先一生、彼の人生に枷をかけることになるんだ。
リョウヘイは、ペナルティがどんなものか知らない。だからここまで言ってくれる。
何よりも、関係が変わって人生が崩れた話を散々聞かされていたんだ。こんな短時間でそれにかけるだなんて――――――
「五、四、三、二、一――――――」
「ユイ!」
リョウヘイの声が反響する。
私は震える手で指輪を握った。
「時間切れです。あなたは、一八六五人目のゲームプレイヤーとなります」
冷静で刺さる声が耳に届く。それを聞いたリョウヘイは、少し目を見開くと息を吐いた。
「……そういうことかよ」
「ごめん、ごめんリョウヘイ……さすがにこれ以上、リョウヘイに負荷はかけられないよ……」
私の返答を聞いたリョウヘイは、大きく息を吸うと、「ひとつ教えてやる」と呟き、私の肩を叩いた。
「現状維持に努めたところで、変わらねぇものなんてねぇんだ」
リョウヘイはそのまま家へと戻った。私は呆然と立ち尽くす。
選択を間違えたのだろうか。
姉は引きこもり、両親は事故で亡くなり、親友も昏睡状態になった。そんな環境下でリョウヘイまで危険に晒したくなかった。
少しでも、元の生活に戻れる可能性にかけただけなんだ。
だが私の思考とは裏腹に、感情の欠落した声が耳に届く。
「あなたは今日からゲームプレイヤーです。では、改めて申し上げますね」
子どもは咳払いして、私に振り返る。
「『恋愛ゲーム』。ゲーム内容は、期間内に決められた人数の異性と両想いになること。ユイさんの場合は、三ヶ月で三人がクリアラインとなります。カウント条件は『唇へのキス』。それ以外の自由は奪いません。ですがペナルティには注意してください。優待は利用できませんが、指輪はつけた状態でお願いします」
そう告げると、手元の指輪の色が再度黄色に変わった。
「何でこんなこと……」やるせなさから呟いていた。
子どもは顔を上げると、「『永遠』を裏切った罰です」と淡々と告げた。
「ゲームを進めていく中で、恋愛とは何か、掴めると良いですね」
子どもは意味深な言葉を残して姿を消した。私はいまだ立ち尽くしていた。
冷静に頭が回り出して理解したことは、指輪を手に入れた反動は、やはり来てしまったということだった。
序章『永遠の終わり』 完