週明けの月曜日。今日は、オレンジ色のマスクを着用した。
私の勘違いかもしれないが、このマスクを着用していると、素直に話せるような気がした。席替えにより周囲の環境がガラッと変わったので、気合を入れるためにも根拠のない力にすがることにした。スピリチュアル的な、そんな感覚だ。
教室の後方扉を開く。思ったよりも早く着いたようで、今日は珍しく一番乗りだった。
時計を見ると、七時四十分。普段よりもさらに十分早い。教室内も廊下も静まりかえっていることで、いつもは聞こえないグラウンドで朝練をする生徒の声がこの場まで届いた。
誰もいない教室内も、数十分後には騒がしい教室に変わるのだと思うと、見慣れた教室であるのに、別空間のように感じた。
私は、自分の席へ向かう。最後尾の窓側。窓から見える校門には、生徒指導の人たちが机を組み立てて制服チェックのための準備をしている。
前の座席を見る。教科書が乱雑に詰まっていると確認できた。小学校の頃は引き出しがあったが、高校となると、机の中そのまま入れることが多い。
そこで、前の席は暁だったと思い出した。彼は、置き勉するタイプのようだ。
ひとりの空間に気が抜けていたのかもしれない。突如ガラッと扉が開き、私は大げさに肩を飛びあがらせた。
「あ、あれ、小夜ちゃん?」
聞き覚えのある声で目を見張る。声の主は、なんと暁だった。
私はずらしたマスクを慌ててつけなおす。人のことは言えないが、今日は随分登校が早い。
「は、早いね」
気づけば、口から出ていた。たしかに暁は、普段は登校時間終了五分前である八時十五分くらいに登校していた。
とそこで、把握している自分が気持ち悪いな、と赤面した。
「現文のノート持って帰るの忘れてさ。たしか今日、提出だったじゃん」
暁は、肩をすくめて自席まで歩く。近づいてくることに内心気が引き締まるが、彼は前の席だ。
暁は「何でノート点検なんてあんのかね」とぼやきながら机にカバンを置く。遅れて朝日を感じる爽やかで甘い香りがふわりと舞った。
「珍しく早く行くなら、せっかくだから一番乗りで来てみようって思ったんだけど」
そこまで言うと、暁は私にニヤニヤした視線を向ける。「残念ながら、先着がいたようで」
「ご、ごめんなさい……」
「へへっ、俺こそ、貴重な早朝時間をジャマして悪いね」
爽やかにそう言うと、暁はノートを広げて書き写し始めた。友人から写真で送ってもらったのか、度々スマホの画面を確認してノートに記載している。
その様子をぼんやり眺めていた。
自然に対応できていただろうか。私は話すことが苦手だが、簡単な相槌程度くらいはできる。そう信じたい気持ちがあった。
茫然と背中を見つめていたが、突如「あっ」と声が響くと、暁はこちらを振り向き、手を合わせた。
「あのさ、悪いけど先週の木曜日の分、見せてくれない?」
暁は眉を下げて懇願する。先週木曜日、授業中に居眠りから叩き起こされる暁の姿を思い出した。
申し訳なさそうに手を合わせる姿が微笑ましく、気づけば頷いていた。
私は、緊張する手でノートを広げる。こんなことになるとは予想していなかった。先週まとめていた自分に感謝した。
中を見た暁は、目を見開く。
「すっげぇ、キレイにまとめてんじゃん」
「ノート取るのは、結構好きで……」
「マジ? さすがだね」
暁は、イキイキした表情で自分のノートを広げる。「全然記憶にないや」と頭を掻きながらノートを写し始めた。
「先生の言葉とかまでメモしてるの、丁寧」
「授業中、ヒマだから……」
私の言葉に、暁は呆気にとられたように口を開ける。ごく当然のことを口にしたつもりだが、居眠りをしていた暁には珍しいことのようで「現文の音読って眠くなるんだよな」と開き直る。
「字もきれいで、すごく読みやすい。女子のノートって感じ」
暁は、軽く口にしながら筆を走らせる。たくさん褒められることに慣れず、だんだん気恥ずかしくなってきた。
「俺、字書くの苦手でさ。皆に読めねぇって言われんの。まぁ、自分も読めないんだけど」
「そ、そんなことないと思うけど」
「現文はノート点検あるから、まだがんばってる」
暁は、得意げにペンを振る。「でも、字が汚い人は天才だって聞いたから、最近は自分は天才だって思うようにしてる」
おどけた調子の彼の言葉に、無意識に笑顔になった。
気づけば自然体だった。まるで暁がこちらの緊張をほぐすかのようななだらかな会話だ。私はただ、相槌を打っていたにすぎないが、少しだけ彼との距離が近づいたかのような錯覚にすら陥る。これも彼の話術には違いない。
暁は、ノートを写すことに集中し、沈黙が訪れる。こちらからも話題を出したほうがいいのかもしれないが、作業の邪魔をしても悪い。
後ろを向き、私の席でノートを写す暁に、柔らかな朝日が差す。彼を印象づけるオレンジのパーカーが、より一層明るく見えた。細い髪が風になびき、顔にかかるたびに暁は手で払った。
クラスの中心人物である暁と距離が近いことに、今さら実感する。マスクの中の温度が、少しだけ高くなった。
「そんなに見られると、緊張するよ」
堪えられなくなったように、暁は噴き出しながら笑った。そのことで私は、無意識に彼を観察していたと気づく。
「ご、ごめん……かっ」 こよくて。
慌ててマスクをずらして手で口を覆う。また言ってしまいそうになった。
「ど、どうかした?」
暁は、不思議そうに目を見開く。よく考えなくても、いきなりマスクを外して手で口を覆うだなんて意味がわからない。変な人物だと思われないよう、慌てて言葉を探す。
「か、髪……ジャマ?」
暁のたびたび髪を耳にかきあげる仕草が気になっていたからか、咄嗟に出た言葉がそれだった。
なんとか誤魔化せたようで、暁は、あぁと照れくさそうに髪をいじった。
「そう、伸びてきてさ。そろそろ切んなきゃ」
「これ、使う?」
私は、ポーチからヘアピンを取り出した。黒色のシンプルなものだ。これなら男性が使用しても目立たないだろう。
遅れて全身から汗が噴き出す。自分でも予想外な突飛な行動だったのだ。
暁も一瞬キョトンとするが、「まじ、ありがと」と笑ってくれた。
「小夜ちゃん、つけてよ」
「えっ」
「俺、そのピン使ったことないし」
ん、と暁は横を向くと、少し前かがみになった。流されるように辿り着いた道とはいえ、さすがに引っかかりを覚えて息をのむ。
私が、暁にヘアピンをつける?
こんなの、緊張しないほうがおかしい。ただ、ヘアピンを貸すとは自分が言ったことだ。それに、暁のあまりにも自然な振る舞いに、むしろ断るのも変だとすら感じさせられた。
私は震える手でヘアピンを持つ。恐る恐る暁の耳付近に手を当てる。彼の肌に私の手が触れる。体温の上昇が伝わっていないだろうか。心臓の音は聞こえていないだろうかが気になった。