「ほら、だから忠告したではないか」
落ち着いた声と共に、ひやりとした風が吹く。それと同時に、莉世の身体の緊張はふっと解かれた。
何者かが目前に着地する。まるで時間が操作されているかのように、時はゆるやかに流れていた。
莉世の前に、一人の少年が立っていた。黒漆の髪に、白い狩衣を着用している。顔には狐面が付けられていた。身長は莉世たちと変わらず幼い体格だが、洗練された雰囲気は年相応でない。
「だ、誰……?」
皆も彼に気付く。東も顔を向けて首を捻っている。
しかし狐面の少年は、鬼から目を逸らさない。
「何だ、おまえ」
突如現れた狐面の少年に、鬼も怪訝な顔をする。
「ようやく姿を現したな。相次ぐ子どもの失踪事件は、全ておまえの仕業だろ」狐面の少年は、淡々と告げる。
彼の異質な空気を察知したのか、鬼は表情を一変させる。
「おまえ、人間じゃねえな」
「今、立ち去るなら、私たちはおまえを見逃してやる」
「私たち?」
鬼が尋ねたと同時に、表情が険しくなる。莉世も何かの気配を感じた。
いつの間にか日は低くなり、辺りは暗くなりつつある。雑草の生い茂る周囲を囲む木陰から、こちらを窺う眼光がいくつも確認できた。
「その女性を離して、今すぐここから立ち去りなさい。日没まであと十秒。その間に」
少年の狐面の奥の目が、赤く光った。殺気を感じた鬼の赤い皮膚は、血の気が引いたように青くなる。
「何だよ、このガキ……気色悪い……!」
「きゃっ」
鬼は、西久保を崖から放り投げると、莉世たちの頭上を飛び越え、山頂へと逃げる。
「和奏!」
東の叫んだ瞬間、狐面の少年は崖から飛び降りる。宙で西久保を抱えると、身を翻して傍の木に着地した。
「あ、あれ?」西久保は、ポカンとする。
「喋るな。舌を噛む」
狐面の少年は短く言う。状況を把握した西久保は、仰せのままに両手で口を覆った。
少年は、ひざを深く曲げると一気に跳躍した。その飛距離は、明らかに人並み外れていた。
狐面の少年が皆の場に戻ると、東が駆け寄る。
「おい、和奏……!」
「何事もない」
狐面の少年はそう言うと、西久保を東に預ける。
「前方を進めば、すぐに麓に辿り着く。今なら鬼も現れない。日も暮れた。早く帰宅しろ」
淡々と説明すると、少年は背を向けた。そんな彼を東は怪訝な顔で見る。
「おまえ、誰だ……?」
東の言葉に、少年は数秒静止するも、何も答えず木の上へ飛び移った。跳躍を繰り返し、この場を去った。
恐怖から解放された友人たちは、慌てて西久保の元へと駆け寄る。
「わ、和奏ちゃん!」
「西久保、大丈夫か?」
皆が西久保を心配する中、莉世は呆然としていた。頭がついていかなかった。
てっきりあの後自分たちは鬼に襲われるものだと思った。だが、実際はそんな未来は訪れなかった。
安心していいはずなのに、違う未来が訪れたことに何故か少しだけ違和感を感じた。
「あなたは、わかっていたでしょう」
「え?」
頭上から声が聞こえ、慌てて顔を上げる。背後のなぎ倒された木の上に、一人の青年が立っていた。綺麗な白髪に、清潔感ある和服を着用している。
いつの日か見た、あの青年だった。
「あなたも、こうなる未来を視ていたはずです。それなのに、現実を受け入れなかった」
白髪の青年は、淡々と告げる。怒っているのか落胆しているのか掴めない表情だった。
「そんなこと、いきなり言われても……」
莉世は困惑する。突然の追及にも関わらず、彼の言葉を否定できなかった。心当たりがあった。
今回の出来事も、内容が被っていた。
青年の言う「未来」は、時折見る「悪夢」のことを指しているのではと見当がついたからだ。
「あなたのお力が必要なのです。どうか、これからは目を逸らさぬように」
白髪の青年はそう言うと、木の上から反対側へと飛び降りた。
「ま、待って……!」
そう叫ぶも、すでに青年の姿は見えなくなった。
「うっさいわねぇ……」
怒気の孕んだ声で正気に戻る。振り返ると、友人に囲まれる中、西久保は目を覚ましていた。
「起きてるっつうの。耳元でうるさいんだよ、猿」
「あぁ? それが心配してやった人間に対する態度か」
「というかあんた、警戒しなさすぎでしょ。いっそのこと鬼に食べられたらよかったのに」
「鬼って何のことだよ」
「確かに佐之助、びびらなさすぎて、こっちが恐くなった」友人が笑う。
「神隠しに遭うし、鬼に掴まれるし、はぁ、もう、本当に最悪」
「ちょっと待て、だから鬼って何なんだよ」
「それにしても、あの狐のお面くん、誰たったんだろう。ヒーローみたいでちょっとかっこよかった」
「うんうん。それに比べて、うちの男子は」
女子たちが口々に言う。東以外の男子たちは、顔を引き攣らせた。
「いやいや、さすがに鬼は無理だろ」
「おまえらだってびびってたくせに」
「だからその鬼って、何なんだ!」
東は大声で叫ぶ。話についていけずにやけくそになっているようにも見える。
皆、いつの間にか普段の調子に戻っていた。まるで先ほどまでの出来事が、夢であったかのようだ。
莉世だけは、この状況に取り残された。
――――あなたも、こうなる未来を視ていたはずです
白髪の青年の言葉が、脳内を渦巻いていた。
時折見る悪夢。妙に現実味が感じられることで、警戒心が強くなった。悪夢と同じことがこの先、現実で起こるのではと怯えていた。
過去に何度か、夢で視た内容と全く同じことが現実で起こってしまったからだった。
今まで偶然が重なっただけ。所詮、夢だと考えていた。だが、白髪の青年の言葉で現実が突きつけられた。
悪夢は、この先起こる「未来」だったというのだろうか。
その言葉が本当だとしたら、
それが証明されてしまったら、
私は、今まで起こったこと全部、受け入れなければならないじゃないか。
「違う……違うもん…………」莉世は頭を抱える。
「私は…………私は、知らなかったもん………………だから、私のせいじゃないよ…………………」
東たちの呼ぶ声が聞こえる。
莉世は虚ろな思考のまま、家路についた。
★★★