時刻は、午後十一時三十五分。
くたびれた和服を着用した春明(ハルアキ)は、深い溜息を吐きながら、藍河稲荷神社に向かっていた。
連日作業が続き、眠る為だけに帰宅する生活になっている。今は仕方ないとはいえ、愛娘としばらく話せていないことは気がかりだった。
朱塗りの大きな鳥居が現れる。いつ見ても穢れのない妖艶な赤さに、歳をとらない美魔女のような不気味さを抱く。
鳥居下の白髪の青年を確認すると、軽く手を上げた。
「お待ちしておりました」白髪の青年は、柔和に笑う。
「今日は、早く帰れると思ったんだがな」春明は、肩をすくめる。
「そう言われましても、あなたのお力が必要なのです」
「わかってるよ」
二人は境内に入り、本殿奥の細道へ進む。しばらく歩くと、別れ道の看板が現れた。
白髪の青年は、看板を一瞥すると右側へと進む。春明も後に続く。
「やっと鬼が、現れたのだな」春明は、懐に手を入れながら言う。
「えぇ。妙な噂が流れたことで、中々姿を現しませんでした」白髪の青年は、どこか愉快げに歩き進む。
パリッとした空気が漂う。白髪の青年が歩みを止めたと同時に、構えの体勢になる。
突如、白髪の青年は、首を百八十度捻って振り返る。その顔は、目を見開き、長い舌を出し、挑発するような形相だった。
「オソイナ」
首を捻った物の怪は、カラカラ笑いながら顔を寄せる。頭は首から離れていた。
予期していただけ動じていない。懐から「酉」と記載された神札を一枚取り出し、人差し指と中指を揃えて立てる。
「『松風』」
ボンッと神札から白煙が舞い上がる。数秒後、煙を切るように何者かが飛び上がる。あまりにもの速さに、物の怪の行動は静止する。
「ははっ。遅いのはどっちさ」
神札から現れた松風(マツカゼ)は、カラッと笑うと、背中に生えた翼で物の怪に勢いよく風を送る。
物の怪が怯んだ隙に、春明は別の神札を取り出した。
「『この地に放流した憐れな物の怪たちよ。その魂を浄化し再び命廻されるまでは静かにお眠りたまえ』」
春明がそう唱えた瞬間、物の怪の醜い悲鳴が森林に響き渡る。
神札に吸い込まれるように物の怪は消滅する。真っ白だった表面に文字が記載された。
「なーんか、オレばかり使ってない?」
翼を羽ばたかせ、宙に浮いている松風は、肩をすくめる。
「他の連中が扱いにくいのは、おまえも知っているだろう」
「ははっ、それは確かに」
松風は笑う。「でもその分、ちゃんと弾んでくれよ」
「あぁ。今夜頑張ってくれたら、林檎を箱で用意しておく」
「さっすが!」
松風はご機嫌にウインクすると、白煙を出して神札の中に消えた。鬼神と入れ替わるように、目前に何かが着地する。
春明は、飄々と現れた彼に呆れた顔を向ける。
「こんな茶番に付き合わせるな、水月」
「さすが我が春明、ですね。先日まで現役引退していたとは思えません」
水月(スイゲツ)と呼ばれた白髪の青年は、柔和に笑う。先ほどまで道案内をしていた青年と瓜二つの顔をしていた。
今、封印した物の怪に何か唆したのだろう。もはやくだらない遊びに付き合わされていただけ物の怪が不憫にすら感じる。
「鬼退治の余興ですね、よ、きょ、う。いやしかし、僕ではないといつから?」
「初めからだ。全く、こっちは残業後なんだぞ」
「『狐と狸の化かし合い』というものですよ」
水月は目を細める。「あなたも十分、罪人ですしね」
「どういう意味だ」
「娘さんに現実を見せていないでしょう」
唐突に飛び出た「娘」という単語に顔が曇る。
水月は、笑みを浮かべながら続ける。
「両親を、仲間を、そして奥様を殺されたことは同情します。ですが今は、あなたしか物の怪を浄化できるものがいない」
「何が、言いたい」
頬が引き攣る。水月は笑みを崩さぬまま顔を上げる。
「あなた一人では限界があります。どうか協力者をお考えになってください」
「考えるまでもない」
自分でも驚くほどに低い声が出る。眉間がピクピクと痙攣するのを感じた。
水月は、哀れむように目を細める。
「あなたは娘さんを危険に晒したくないようですが、事は一刻を争います。それに早く物の怪を浄化すれば、その分、娘さんとの時間が作れます」
「俺が今まで以上に早く、浄化すれば済む話だ」
「親に放っておかれる立場にある子どもは、案外辛いものなんですよ」
痛いところを突かれる。言葉が出なかった。
水月は春明を一瞥すると、懐中時計のような物を取り出す。
「さて、居場所も掴んでいますので、鬼が眠っている間にさっさと浄化してしまいましょう。残念ながら僕は物の怪を浄化する力はないので、春明の力が必要なのです」
水月は分岐点へと歩みを進めるが、思考を巡らせることに意識がいき、足が動かなかった。
後に続かない自分に気付いた水月は振り返る。
「娘は、俺が命に変えてでも守る……。あいつは、恐い思いをしなくていいんだ……」
自分に言い聞かせるように呟く。その言葉に、水月は小さく溜息を吐いた。
「まぁ、家族が一番なのは、当然ですよね」
★★★
時刻は、午前二時四十三分。
街は静寂に包まれていた。人気もなく周囲も暗い中、春明は帰宅する。
娘を起こさぬよう気を払う。改装したばかりの自宅は木の香りが立ち、気を付けて歩けば音もならない。
洗い物の溜まった台所で水音を立てぬよう手を洗うと、そのまま二階へと上がった。
室内に入る。洗濯物が散らばり、机上には書類が束ねられ、生活感が溢れている。
隣にある寝室で少女が眠っていた。我が命に代えても守ると決めた、愛しい娘だ。結界に護られているとは知りつつも、顔を見るまではやはり不安だった。
春明は、安堵した表情で少女の頭を撫でる。少女はすやすや眠り、起きる様子はない。
最近、娘の起きている時間は留守にしていることから会話はできていない。今は不安にさせているかもしれないが、それでも優先すべきは物の怪の浄化だと考えていた。
全ては、娘を守る為なのだから。
「知らない……知らないもん…………」
ぽつりと、少女は苦しそうに呟く。
また、夢に魘されているのかもしれない。春明は眉を下げて少女を見つめる。
「違う…………違うよ…………私は知らないもん…………」
少女は呟く。
「ママが死んだのは……私のせいじゃないよ………………」
春明は静止する。深い夢の中に堕ちているのか、少女はいまだ起きる様子はない。
「そうだよ。おまえのせいじゃないさ…………」
春明は、少女の頭にキスをする。安心したのか、少女の表情から強張りが解けた。
「おまえだけは必ず守るからな…………だから今は、何も知らなくて良い」
そう呟くと、春明は再び少女の頭を撫でた。
【1時間目:社会】 終了