2時間目:国語8



時刻は、午後四時二十分。

藍河稲荷神社から北へ五百メートルほど進んだ先に目的地があった。西久保の案内の元、四人は歩く。

五階建ての総合病院は、壁に所々ひびが入り、看板もサビが目立っていた。電気はついておらず「工事中」とプレートが掲げられている。今日は仕事が休みなのか、足場が組まれているだけで関係者は一人もいない。

「つい先月までやってたんだけどな〜。なんかここに新しい演奏ホールができるらしいぜ。どうせならゲーセンにしろよ」バッセン付きで、と東は言う。

「それだったら、ファッションビルの方が嬉しいし」

西久保は対抗するように言う。

莉世は直感が働いた。足は竦み、肌が震える。表情も無意識に強張った。夢で視た病院に間違いなかった。

「噂はこの病院なんか?」東は問う。

「うん、ここのはず……」莉世は、答えていた。

しかし東は、「何で南の南雲が知っているんだ?」と首を傾げた。どうやら西久保に質問していたようだ。莉世は慌てて首を振る。

「君は今日、術書は持ってきたのか?」北条は、西久保に問う。

「当然でしょ。ずっと試したかったんだから」

そう言って西久保は、鞄の中から術書を取り出す。

北条は、術書を興味深気に見ていた。

「さ〜物の怪よ。今日は俺と遊ぼうぜ」

東はそう叫ぶと、先陣切って病院へと歩き始める。三人は、彼の後に続く。

根拠はない。だが、確実に何かは起こるはずだ。

それなのに、こんなに無防備に足を踏み入れて大丈夫なのだろうか。

「きょ、今日はあの鬼神、は、持ってきたの……?」

北条に問うが、彼は首を横に振った。

「鬼神は『呪石』の見張りなんだ。基本的に、神社を離れてまでは扱えない」

「そんな……」

期待していただけ肩を落とす。そんな莉世を北条は一瞥する。

「別に、心配しなくても良い」

「え?」

莉世は顔を上げる。だが北条はそれ以上答えず、スタスタと病院の中へと足を踏み入れた。

遅れを取らない為にも、莉世は慌てて北条の後に続いた。

五階建ての広い館内だが、電気は無く、西に傾いた陽の光で辛うじて全体が把握できた。

閑散とした廊下を歩く。すでに病院としての役目は終えたものの、壁に染み付いた薬品やアルコールの香りは拭えていない。それだけ長い間、この街の人たちを救ってきた場所なのだろう。独特な香り、窓の閉ざされた風のない空間、ヒヤリと硬いフローリング。覚えている。全て夢と一致していた。

「これ肝試しじゃん……」

西久保は、本を抱く形で身を縮めながら呟く。

「雰囲気あんじゃねぇか〜」

東は、楽しそうに周囲を見ながら呟く。

「今回の噂って、女の子が出るんだったよな」

「そうだけど。あんた、もう少し怖がるとかないの?」

「ただの人のいねぇ病院じゃねぇか」

「聞いたあたしが悪かった」

西久保は観念したように頭を振った。



「ここにいる物の怪って、どんなものなの?」

莉世は北条に訪ねる。北条は天井を見上げながら思案する。

「僕が聞いたのは、事故で脚を失った少女。だから生きている子どもの脚を」

「もう話さなくていいよ」

慌てて言葉を遮る。顔が引き攣った。「やっぱり、そんな物の怪と私たちが戦えるなんて思えないけど」

「あの本は、素人でも扱えるように作成されたものだ。例え猿でもヤマンバでも」

「二人を貶してる?」莉世は、前を歩く二人の背に目をやる。

「あの本を褒めてる」北条は真顔で頷いた。

ほぼ確実に物の怪が出るだろうことは確信しているにも関わらず、今回は過剰な警戒はしていない。

皆がいることで安心できているのかとも思ったが、むしろ逆だった。

自分がいつも見ていた「悪夢」を「未来」だと仮定するならば、今はその未来に立ち向かう為に対策を取っている。怪異を恐れない東や、術書を持つ西久保、そして妙に怪異に詳しい北条がそばにいるだけで、こんなに前を見る勇気がつくものなんだ。

ガラスに映る自分を見る。普段と違い、背筋を張り、きちんと前を向いていた。そんな自分が別人に見えた。

大きく息を吸って意気込んだ。

三階に上がった時、パリーンとガラスの割れる音がした。莉世たちは顔を見合わせ、警戒して周囲を見回す。病室の並ぶ廊下奥の部屋の窓のガラスが、地面に散乱していた。

目を瞑りたくなるが、空気で現実だとわかってしまう。目前には、まさに夢で視た光景が広がっていた。

「あは、わかーい人、みっけ」

割れた窓から姿を現した少女は、屈託のない笑顔で前方に現れる。

無地の患者服を着用しているが、地面に這いつくばり、腕で身体を持ち上げるように動く。その身体に両足は確認できなかった。

脚のない少女の物の怪。その少女は、自分の脚を求めてこの病院に棲みついたと言われているらしい。

「何だ? 今の物音」東は、ぽかんと口を開ける。

「ばか、物の怪!」西久保は、顔を歪めて後ずさる。

「物の怪?」

「もしかして、また見えてない?」莉世は問う。

前方に塞がる少女。地面に這いつくばる姿勢は明らかに異様なのに、東は動揺していない。見えていないふりをするには演技が上手すぎる。

「よにんのおにいちゃんとおねえちゃん、あは、あしがいっぱい。うらやましいな。そんなにたくさんあるなら、いっぽんぐらいいいよね」

少女は、クスクス笑いながら腕を動かしてこちらに近づく。莉世たちは、じりじりと後ずさる。

「おにごっこでかてたら、そのあしちょうだい」

そう言うと、少女はカッと目を見開いた。莉世たちは、反射的に走り始める。

西久保は、茫然とする東の服の裾を引っ張る。

「お、おい! 何だよいきなり」

「ばか! 本当に見えてないの? 女の子が追ってきてるんだよ」

「ま、まじかよ。どこ?」

「どこって後ろ…………いやぁ!」

西久保は振り返ると悲鳴を上げる。少女がすぐ近くまで迫っていた。腕をついている姿勢にも関わらず速すぎる。

「おっそーい。つまんない」少女はケラケラ笑いながら言う。

「やばいやばい、追いつかれる……!」

「近くにいるのか…………ここか!」

東は立ち止まると、手をパンッと鳴らしていきなり腕を縦に大きく振った。

「ぎゃんっ」

東の振った腕に、タイミング良く少女の頭がクリーンヒットする。少女は勢いよく地面に突っ伏した。

とんでもない東の行動に、他の三人は開いた口が塞がらない。

「お、おまえらのその反応。もしかして当たった?」

東は、手を擦りながら言う。

「猿……あんた…………」

「今のうちだ」

北条は声をかける。その声に皆、正気に戻る。

階段を飛ぶように駆け下り、二階のフローリングの床を滑る。少女はしばらく頭を擦ってぼんやりとしていたが、何事もなかったように莉世たちを追いかけ始める。あははと嗤うその顔には、痛みも疲労も全く感じられなかった。

東のおかげで、莉世たちは少女から適度な距離を取ることができた。



二階の長い廊下を走りながら次の行動を思案する。

「東くんって……」莉世は走りながら呟く。

「全く見えてないくせに、いきなり素手で殴るなんて、聞いたことないよ」西久保も苦笑する。

「本当に当たったのか? 手ごたえあんまりなかったけど」東は、何ごともなかったように拳を擦る。

「クリーンヒットだよ。あんた、ちょっとずれてたら脚取られてたかもしんないのに」

「あ、そんな噂だったっけ」

「それすら忘れていたのか」北条も僅かに頬を緩める。

「俺が行動すんのは、全部直感だからな」

東は誇らしげに言い切る。

直感か。

莉世も、無意識に頬が緩んでいた。

「つか和奏。てめぇ浄化するっつってた本、使わねぇのかよ」

「そ、そうなんだけど、これたくさん書いてあって、どこ見れば良いのか……」

西久保が慌てて本を捲っている時、突如悪寒がした。

恐る恐る背後を振り返ると、廊下奥に少女の姿が見えた。

「物の怪!」莉世は叫ぶ。

「おい、ヤマンバ!」

西久保は足を止めて必死に術書を捲っていた。「ど、どれ……!」

「六十七ページ」北条が呟く。

「ろ、六十七……!」

そう言って西久保は、慌てて本を捲る。

「これで? って、わっ!」

魔法陣の書かれた該当ページが開かれた瞬間、本は眩しい光を放つ。

「西久保さん!」思わず叫ぶが、息を呑む。

「和奏?」

東も西久保を訝しげな顔で見る。

光を浴びた西久保の顔は冷静で、先ほどまでの動揺は見られない。

まるで人が変わったように落ち着いた態度だ。

西久保は、導かれるように本の魔法陣を指でなぞる。

彼女が指を振った瞬間、莉世たちと少女の間に壁のようなものが現れた。

「ぎゃんっ」

少女はガラスにぶつかったように結界に衝突する。

その隙に、莉世たちは走る。西久保も正気に戻ったように頭を振ると走り出す。

再び少女との差をつけた。

「すっ、すごい……西久保さんすごい……!」

莉世は驚きの声を上げる。

「一瞬誰かと思ったぜ。どうしたんだよ」

東は先ほどの西久保の様子に引っかかる。

「いや……なんか、本を開いたら、身体が勝手に……」

自分の行動を疑っているのか、西久保は目をぱちぱちさせた。

安堵するのもつかの間、少女は結界に勢いよく衝突して破壊した。

「嘘でしょ!」西久保は声を上げる。

少女の目は、おもちゃを見つけた子どものように輝いていた。

「たのしい、たのしいよ、おにいちゃんおねえちゃん」

少女は、先ほどよりも速度を上げてこちらまで迫る。

笑顔で地面に這いつくばる姿勢が悍ましく、莉世と西久保の顔は青ざめる。

「やだやだ!」

「こここわいっ……」

脚をもつれさせながら、がむしゃらに走る。

逃げることに必死で、頭で考える余裕がなかった。

「おい、どこまで行くんだよ!」

東の声で正気に戻る。慌てて走っていたことで、西久保と莉世は階段を通り過ぎていた。

まずいと思ったのも遅く廊下突き当たりに衝突する。

莉世たちは振り返る。少女はすぐそばまで迫る。

「西久保さん……!」

「て、手が震えて……」

恐怖から西久保の手は震え、中々本が開かなかった。

莉世は反射的に目を手で塞いだ。

突如、時間が操作されているかのようにゆるやかに流れた。隣の階段から何者かが飛び出し、少女と莉世たちの間に現れた。神聖な空気と、シャリンッと鈴の音が響く。

莉世たちは、何者かに目がいく。少女の顔からも笑顔が消え、突如現れた少年に顔を向ける。

少年は、飛ぶように少女を追い越しながらパンパン手を叩く。

「鬼さん、こちら」

白い狩衣を着た狐面の少年は、少女を見ながら呟く。

途端、時は動き始める。狐面の少年は、猛スピードで壁をつたう。その姿を見た少女は満面の笑みになる。

「あは、すごい」

少女は振り返ると、先ほどよりも勢いを増して狐面の少年を追いかけ始めた。

狐面の少年は、重力を無視したかのように壁や天井を駆け抜ける。それを少女は腕を脚のように使いながら追う。狐面の少年は、割れた窓から外に出る。少女も嬉々として追った。

あっと言う間に、二人の姿は見えなくなった。

「あいつ、何で……?」東は眉間に皺を寄せる。

「狐くん……!」西久保は、心なし目が輝いていた

だが、もたもたしていられない。

――――しかし残念なことに、物の怪を浄化できる人間は、この街に一人しかいない

白髪の青年の言葉が本当ならば、あの狐面の少年には、恐らく物の怪を浄化する力はない。

彼が時間を稼いでくれている間に、莉世たちは本を使って浄化の準備を整えなければいけなかった。

「西久保さん、今のうちに……!」

莉世がそう声をかけると、西久保は正気に戻り、「そ、そうだった」と慌てて本を開く。

「北条、どこが……ってあれ?」

西久保は振り返るが、いつの間にか北条がいなくなっていた。すでに階段を下りたのかもしれない。

「あいつ、びびって逃げやがったな」

「そんな……どうすれば」

莉世は、必死に思考を巡らせる。

「百十五ページ!」

「ひゃっひゃく……!」

西久保は本を慌てて捲る。該当ページが開かれると、先ほどと同様に本が光り始めた。

西久保の顔は変わり、何かに導かれるように魔法陣を宙に指で書く。

浄化の瞬間に合わせたタイミングで狐面の少年と少女が現れる。勢いよくこちらまで走ってくる。

「この地に放流した憐れな物の怪たちよ。その魂を浄化し再び命廻される時までは静かにお眠りたまえ」

西久保の声と共に、宙に描かれた魔法陣がカッと光り出す。少女は悲鳴を上げ、本の中に吸い込まれるように消えた。

数秒後、白紙だったページに、文字が浮かぶ。

「本当に……浄化できた……?」

西久保は、目をキョロキョロさせる。その顔には、先ほどまでの冷静さは消え、焦燥と恐怖と高揚が滲む。

「された……ぽいよね……」

莉世は、文字の記載された本を見ながら答える。

「お、終わったのか」

物の怪の見えていなかった東は、必死に状況を把握する。

「すごい……私たちだけでも、できるんだ……」

「やば。何この本、すごい……!」

莉世と西久保は、本を掲げながら歓喜の声を上げる。その顔には笑顔があった。東は、頭を捻りながら手を叩く。

「あ、そうだ、あなた……」

西久保は振り返るも、いつの間にか狐面の少年は姿を消していた。

「あれ、いつの間に……?」

皆がポカンとしていると、「終わったのか」と階段から北条が顔を現わす。

「北条。おまえ今までどこ行ってたんだ」東は叫ぶ。

「下にいた。皆来ないから上がってきたら、無事終えたようで」

「北条、逃げ足は速いってか」

「北条、怖くてビビってたんだ」

東と西久保は茶化す。北条は、無言で目を細めた。

「北条くん、何か息きれてない?」

莉世は、僅かに胸を上下させる北条に声をかける。

北条は、「別に平気だ」と視線を逸らした。

☆☆☆