視界は暗い。
周囲を見回すも、何も見えない。何も聞こえない。
これは、悪夢だろうか。
これは、現実だろうか。
私は、目を閉じているのだろうか。
もうとっくに、「現実」を受け入れる覚悟は決めたはずなのに――――。
「すごい! ホタルだ!」
突如、無邪気で明るい少女の声が響く。同時に、暗がりの中にぽわりぽわりと蛍光色の光が灯り始めた。
音もなくふわりと舞えば視界を彷徨い、ちかちかと点滅すれば、息を吹きかけられたかのように消息する。
温かいその光に、どこか安心感を覚えた。
「きれいだよね。この辺りじゃ、ここだけしか見られないよ」
澄んだ少年の声が応える。
遅れて川の水の流れる音が鼓膜を揺らす。木々の葉が擦れ合い、ザァッと心地良い音が川の音と共鳴する。
洗練された空気に街灯の届かない細道、少女と少年以外には人気も感じられない。
少女と少年は、キラキラした目で宙を見回す。
「この川は、上流の水が流れてきているから、とてもきれいなんだ」少年は、誇らしげに説明を続ける。
「人もいないし穴場だね~。それに暗いと何か大人なキブン」
少女は、上機嫌に笑う。無邪気な彼女を、少年は愛しい目で見つめた。
しかし少女は、次第に眉を下げる。
「でもホタルってさ、二週間も生きられないんだよね。こんなにきれいなのに、可哀そう……」
「そうだね……」
少年もつられて下を向く。「でも、僕はそれでも良いかも」
「それでも良い?」
「だって最後にこんなにきれいに生きられるんだから」
そう言って少年は手のひらを空に向ける。宙を彷徨っていた一つの光は、少年の手の平の上まで来ると、静かにとまった。ホタルは、ぽわりぽわりと何度か点滅する。
少女は嬉々として少年の元に近づく。辺りを彷徨っていたホタルも彼らの元に集まる。そんな様子に気づいた少女は「あはっ」と楽しそうに周囲を見回す。
「それに、一人で寂しく死ぬわけじゃないでしょ。こうやってたくさんの仲間と一緒だし、僕たちも見守ってあげているんだからさ」
「そうだね。こんなにたくさん仲間がいるなら、寂しくないかも」
しばらくすると、少年の手にとまったホタルは音もなく宙へと舞った。少年と少女は茫然と目で追う。
「私たちは、ホタルの最期を見届けてあげるんだね」
少女は、納得するように頷く。「だったら毎年、見届けてあげなきゃ」
「ここなら……毎年ホタルを見ることができるよ」
少年はそう言うと、気恥ずかしそうに俯く。
「燐音がここに来てくれるなら、毎年一緒に見ようよ」
少年は、着用しているTシャツを握りしめ、振り絞るような声で言った。少女は一瞬静止するも、すぐに「うん!」と満面の笑みで答えた。
「毎年一緒にホタルを見ようね。約束だよ」
そう言って少女は小指を立てて少年の前に掲げる。
少年は驚いたような顔になるも、照れ臭そうに少女の小指に自身の小指を絡めた。
ゆびきりげんまん、と愉快気に歌いながら約束を躱した。
☆☆☆
じっとりした湿気が肌にまとわりつく。気候の良い朝もすでに終わり、梅雨入りを告げていた。しばらくは湿気と戦う日々になりそうだった。
莉世は、目覚まし時計を静止して数分間、茫然と静止する。何だ。このあまりにも平和すぎる夢は。
胸が擽られたかのように痒くてじれったい夢だった。一昨日視た悪夢とは対照的な内容だ。
こんな夢を見たのは初めてだった。
莉世は、ポリポリと頭を掻く。
「燐音……」
燐音(リンネ)。夢の中の少女は、少年にそう呼ばれていた。友人に同じ名前を聞いたことがなければ、当然自分の名前でもない。少年の口にしたタイミング的にほぼ確実だが、そもそも名前なのかもわからない。
重い身体を起こす。今日も雨予報なのか空は曇天で、朝か疑うほどに薄暗い。天候につられて気分も下がる。
莉世は、夢に出てきた少年少女に全く覚えがなかった。小学校低学年ほどの幼さであり、確実に知り合いではない。
だが、引っかかったのは、彼らのいた場所だった。
「多分、あの小川、だよね……」
ひとり言がぽろぽろと口から零れる。起床すぐであり、父親もいないので仕方がない。
莉世は、夢の中で少年少女のいた川に見覚えがあった。空気や暗さ、匂いからも、恐らく先月東たちとホタルを見た藍河稲荷神社横の小川ではないのか。
違う点といえば、夢の中ではホタルの数が少なかったことだ。
確実に知り合いでない少年少女の日常だが、行ったことのある場所であっただけに引っかかる。
神社といえば、昨日――――。
思わず思い出したことで全身がカッと熱くなる。無意識に大きく頭を振った。この部屋には一人しかいないのにも関わらず、挙動不審な行動にいたたまれなくなる。
――――大切な人は、例え生まれ変わろうとも忘れはしない
思わず額に触れる。昨日の北条は、別人に見えた。あの言葉の意味はどういう意味なのか、何のつもりであんなことをしたのか理解できていない。考えたところで頭もまともに回らない。
まだ恋愛経験の浅い中学生の莉世にとっては、ハードルの高すぎる行為だった。
「北条くんのせいだよ……」
こんな平和ボケな夢を見たのも、昨日あんなことがあったからだ。それに、西久保に合わす顔もない。普段通り振舞うことができるだろうか。
だが、二日連続で休んで授業についていけるほどの余裕もない。
布団から身体を起こして学校の支度を始める。そこでふと、違和感を抱く。
「あれパパ、昨日は帰ってないのかな……」
昨夜眠りにつく前と変わらぬ位置に布団や書類が置かれたままだった。少しはこの場にいた痕跡は残っているはずで、莉世は父親が帰宅していると把握していた。特に父親が物の怪に関わる仕事をしていると知っただけに、今日も無事だったのだと安心していたのだ。
何故かわからないが、妙に胸がざわついた。
「って、時間ない……」
莉世は、慌てて学校の準備を始めた。
【4時間目:保健体育】