目前を走る莉世は、全くこちらに気付いていなかった。それほど先ほどの北条の行動に動揺しているように見えた。
「莉世、ちゃん……」
目の錯覚だろうか。北条が莉世に重なるように顔を近づけていた。
背後だからわからないが、キスをしていてもおかしくない距離感だった。
西久保は、神社から逃げるように家路に向かう。気付けば駆け足になった。
「北条って……もしかして…………」
そこで頭を振る。考えたくもなかった。
だが脳内は、まるで現実を見せるように今までの北条の姿が浮かび上がる。
北条は、危険な時は身を挺して守ってくれた。鬼の時も、少女の時も、そして先日の池の時も……
自分も例外でない。むしろ、一番迷惑かけている自覚だってある。それでも北条は、「仲間」だから自分を助けてくれる。
だが、違った。北条の莉世を見る顔だけは違った。
自分たち「仲間」以上に大切な存在を見守るような、穏やかで優しい顔だった。
気づいたら目で追っているので、嫌でも目に入る。
そんな彼の顔を見るのがどうしても辛かった。
「あたしの方が……先に好きだったのに…………」
ドロドロした感情が湧き上がる。
北条が莉世のことを特別だと思っているだけで、胸が張り裂けそうだった。
莉世は悪くないのに、どうしても「鬱陶しい」だなんて思ってしまう。
私の方が先に好きになったのに。
莉世は、自分が北条のことを好きだと知っているくせに。
協力してくれるって言ったのに。
冷静になろうと頭を振るが、勝手に浮かぶ。
それほど西久保の精神は不安定だった。
◇◇◇
新月の宵の空は、普段より一層暗く、深い夜を演出していた。外灯の薄明かりがじわりと灯る街も静けさに包まれていた。
ヒュルッと湿気の孕んだ風が木の葉を揺らす。サラサラと擦れる音の響くほどに静まり返っていた。
深い夜を、白髪の青年は鳥居に腰掛け見上げた。
「明日は、皆既月食です、か……魂と同じく運命も廻る……やはり重なっていたのですね」
そう呟くと、白髪の青年は鳥居から舞うように飛び降りる。音もなく着地した。
白髪の青年の表情に笑みはなかった。
何としても止めなければいけない。
私は、唯一それのできる存在なのだから。
「深淵を覗く時……深淵もまたこちらを覗いているのだ……」
白髪の青年は、ニーチェの格言を噛みしめるように口にした。
◇◇◇
藍河稲荷神社境内、封印の社。それにいち早く気づいたのは、彼女だった。
環の封印されている社内に、突如ボンッと白煙が立ち込める。艷やかな赤髪に、大きな牛の角の生えた大柄な女性の鬼神、日向が姿を現した。
日向は「聖力」を持つ。主はいなくとも、自らの意志で人型になることが可能だった。
日向は険しい顔で、人差し指と中指を立てる。
「『全解放』」
そう声の響いた瞬間、室内にある十一枚の神札から一斉に白煙が立ち込める。
白煙の中から鬼神たちが姿を現す。
「あーもう。せっかく気持ちよく寝てたのにさ〜」
細い尻尾の生えた、右肩に「子」と刺青のある小柄な少女鬼神は、煩わしそうに頭を掻く。
「あァ、何だよこんな時間によオォ」
束ねた長髪を掻き上げる乱丸はガラの悪い声で叫ぶ。
「乱丸まで解放する必要ねぇだろ」
山吹色の髪に背中に大きく「虎」と刺青のある少年鬼神は、乱丸を睨みながら手を広げる。
彼に庇われているフワフワ髪に鎖骨に「卯」と刺青のある少女鬼神は、ポヤンとした表情で立つ。
「基本的にボクたちは、解放すれば面倒だと思われているでしょうヨ」
和服の袖から三匹蛇が覗き、舌に「巳」と刺青のある七三分けの青年鬼神は、愉快気に目を細める。
「珍しい。ひゅーたんが全員解放するなんて」
犬の尻尾の生えた左手の甲に「戌」と刺青のあるツインテール女の子鬼神は、興味なさそうに欠伸をする。
「でもこうして全員集まるのなんて、いつぶりかしら」
胸元に「亥」の刺青の入った妖艶な目つきの女性鬼神は、美貌を惜しげもなく晒すように服をずらす。
「どうしたんだよ、日向」
翼を羽ばたかせて宙に浮く松風は、本題を問う。
「環の妖力が、また減っている気がする」
日向の言葉に、全員表情は一変する。
「僅かッスけど、確かに言われたらそうかもッスね」
左門は、目前の呪石を注視しながら同意する。
「でも、それは仕方ないことでハ?」
巳の青年鬼神は、袖の蛇と共に首を傾げる。
「嫌な予感がする」
「嫌な予感ですか」
亥の女性鬼神は、口元に指を当てながら反応する。
「ま、ひゅーたんがそう言うなら、何かあるのかもね」
戌の女の子鬼神は、呪石を見ながら言う。
「念の為、人型になってもらっただけだ。何事もないに越したことはない」
日向はそう言うと、中央の呪石を注視する。他の鬼神も同様に呪石に顔を向けた。
妖狐、環の封印された呪石。縦に大きくヒビの入った石には呪縛の鎖が巻かれ、中央には五芒星の札で封印されている。
これ以上、妖力が漏れて物の怪が増えぬよう抑えているものの、「浄化」できていない状況であるだけ環はいまだこの呪石の中で生きている。
その証拠に、目にするだけで神でさえ悪寒がするほどに禍々しい空気が漂っていた。
「あたしにはよくわかんないや」子の少女鬼神は、首を傾げる。
日向は、呪石から目を逸らさない。
「環……」
そう呟いた瞬間、パリンッと音が鳴った。鬼神たちは、即座に身構える。
日向は、両手を呪石に掲げる。かざした手の平には五芒星が浮かび上がる。
「『封印されし物の怪よ。時がくるその時までは鎮まりたまえ』」
カッと呪石が光った。頑丈に封印された札に五芒星の封印が重ねられる。環の妖力の漏洩を感じるたびに行うことだ。
だが、今日はそれだけですまなかった。
――――ぬるいな
突如、呪石のヒビに大きく亀裂が入る。
瞬時に動いたのは、無口を貫いていた操だった。
操は即座に手を呪石に掲げる。亀裂をこれ以上広げないよう「時間」を止めた。
「操さんは冷静ですね」
亥の女性鬼神は、呪石に息を吹きかける。瞬く間に息はピキピキ音をたてて凍り始める。呪石を物理的に固定した。
――――ぬるいと、言っておるだろう
その瞬間、バリンと音を立てて呪石は崩れ落ちた。
時間と氷の呪縛も、呆気なく解かれる。
「なっ……!」
「嘘だろ」
「何故!」
鬼神たちは、目を丸くする。
その隙に、呪石から何者かの影が現れた。
黒漆の長い髪に、派手な和服を纏っている。
妖艶な女性のその身体には、「九本」の尻尾が生えていた。
「殻に篭って百年……そろそろ封印されるのも飽きたんじゃ」環は、小さく溜息を吐きながら言う。
「環!」
日向は血相変えて環に飛びかかる。両手に出現させた五芒星の魔法陣を翳すも、いつの間にか環の姿がなくなっていた。
「遅いぞ」
その声と共に、ガフッと声が漏れる。
日向は口から血を吐いていた。
「日向!」
「ひゅーたん!」
鬼神たちは、日向に駆け寄る。そんな鬼神たちを環は一瞥する。
「ご苦労じゃ。力を蓄えるには充分の期間じゃった」
「逃がさねぇッスよ!」
左門は、即座に地面に拳を当てる。社全体が大きく揺れた。だが環は、それを避けるように飛び上がり、社の戸を開けて外に出る。
鬼神数人は、即座に社を飛び出す。一番速くに動いたのは、松風だった。
「オレの方が速いね」
松風は、環の前方を塞ぐと、大きく腕を振って風を操る。神社内にある森林の葉がザワザワと騒がしく擦れる。
環は一瞬怯むも、「たわけ」と呟くと、そのまま腕を振った。
「痛ッッ……!」
松風は即座に翼で身を護るも、防がれた翼に大胆に傷が入る。風がピタリと止んだ。松風は、力なく落下する。
「松!」戌の女の子鬼神は、バリッと電気を帯び、地面を蹴った。
「環ィイ!」
松風に変わるように、乱丸が飛び出す。瞳孔は開き、両手に炎を出現させている。
環は乱丸を一瞥すると、彼が面倒だと感じたのか、猛スピードで神社を抜け出した。
乱丸は、空高く飛び上がったところで急静止する。
「乱丸?」
戌の女の子鬼神は、松風を抱えながら首を傾げる。
「この神社には、結界が張られているのサ。我々は抜けることができないヨ」
巳の青年鬼神は、険しい顔で乱丸に顔を向ける。「だが、今の環には効果がなかったようだネ」
「くっそ、何やってくれてんだ」
乱丸は、煩わしそうに結界を睨む。結界を抜け出した環は、憂いを帯びた目で乱丸を見る。
「妾にふさわしい『器』の匂いがする……その時に充分相手をしてやるぞ」
そう言うと、環は瞬時に姿を消した。
時間にして、一分もない出来事だった。
「今の地震は、左門か?」
大地の揺れと風の音で異変を感じた宮司は、慌てて社に駆けつける。その後ろには、息子である北条も夜着のまま姿を現す。
割れた呪石を見ると、二人共瞬時に血の気が引いた。
「封印……」
「解けてしまった……申し訳ない…………」
日向は、お腹を擦りながら答える。痛みを感じるのか、顔は汗で歪んでいた。
「結界も抜けたみたいだよ」
戌の女の子鬼神は、松風の肩を抱えて社の戸を開けた。松風の顔は、傷の痛みから普段の余裕は感じられない。
「日向、松風……おまえら…………」
「私は平気だ……。操、まずは松風から」
日向はそう指示すると、操は松風に向かう。
「こんな……突然……」
北条は、顔を強張らせながら呟く。日向は、悔しそうに目を瞑る。
「以前の環よりも、遥かに力が上回っていた……。封印されている間に、力を蓄えていたと言っていた」
「『水月』」
北条は、即座に憑依する。一瞬のうちに狩衣に代わり、狐面の少年へと変わる。
「あ、蒼……無駄だ…………!」
松風は、治療を受けながら呟く。だが、その声は北条に聞こえていない。
「僕は、この運命を変える。必ず環を止めるから」
そう言い残すと、北条は深く膝を曲げ、社から飛び立った。
【3時間目:地理】 完