4時間目:保健体育7



北条は環の後を追おうとするが、身体がつんのめる。

纏っている『水月』が、北条の行動を引き止めた。

「今は環ではない。彼女の目的はわかったでしょう」

水月は、自分の口を借りて口にする。「なら、今やることは決まったはずです」

水月は、北条家が憑依で使役する『藍河稲荷神社に仕えた狐の霊獣』の中で、莉世のことを知っている霊獣だった。いや、恐らく水月は「南雲莉世という器に入る前の人間」のことを知っている。そうでなければ、今もこんな行動を取っていない。

北条は、しばらく静止するも軽く頷いた。

「あぁ。命に変えても護ると誓ったからな」

「それでこそ蒼だ」

水月は言う。傍から見れば、狐面をしていないと、一人会話劇をしている二重人格のようだった。

北条は、思い出したように狐面をつけ直すと、足を曲げて一気に跳躍した。

☆☆☆

同じ時、莉世は就寝していた。

昨夜出てきた少年少女の何気ない日常、再び平和な夢を見ていた。

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――――――――――――



場所は、藍川稲荷神社の境内。

池で泳ぐ鯉を見ながら、二人は会話する。

「ねぇ、紫翠くんは『輪廻』って、知ってる?」

燐音は唐突に問う。

「燐音は、キミじゃないか」

紫翠(シスイ)と呼ばれた少年は、当然の如く答える。燐音は笑う。

「確かに私の名前だけど、違う。輪廻転生って言われる方の輪廻」

「あぁ」紫翠は、気恥ずかしそうに頭を掻く。

「輪廻って、死んでもまた生まれ変わるっていう意味なんだね」

「そうだった、かも」

「前に見たホタルも生まれ変わるのかなって考えたらちょっと安心しない? もしかしたら来年見るホタルは、前に見たものの生まれ変わりなのかもしれないし」

燐音は嬉しそうに頷く。そんな彼女を、紫翠は愛しい目で見つめた。

「私が生まれ変わったら、何になるんだろうな~。鯉だったらどうしよう」

「鯉って」紫翠は笑う。

「普通の人間に、なりたい」燐音は池の鯉を見ながら呟く。

「普通の人間に生まれ変わって、こうして紫翠くんとまた出会いたい」

燐音の言葉に、紫翠は歯痒そうに口を結んだ。

「……例え何に生まれ変わっても、僕は必ず燐音を見つけるよ」

紫翠は力を込めて口にする。燐音はキョトンとした顔で彼を見る。無垢な彼女に紫翠は愛おしい目を向け、彼女の頭を撫でる。心地よい体温に燐音の顔は緩む。

「生まれ変わるたびに、僕は燐音に出会うから。そして――――ずっと燐音の傍にいるからさ」

――――――――起きろ。

……………………誰…………?

誰かの声と同時に頭に温かい感覚がした。

心地良い体温。誰かが頭を撫でてくれているような……あれ、今私は少年少女の夢を見ているはず……

渋々目を開けると、そこには狐面の少年、北条の姿があった。

「わ、わっ!」

莉世は、咄嗟に身体を起こす。「ほ、北条くん……?」

「厳密には、蒼の身体をお借りした『私』です」

狐面の少年は、そう答える。この口振りに聞き覚えがあった。

「もしかして、あの白髪の……」

「えぇ。こんばんは」

そう言うと、人差し指と小指を立てて「コンコン」と狐のマネをした。

ベランダに続く窓に顔を向ける。カーテンが開いていることからも、恐らくそこから忍び込んだのだろう。

「し、深夜に、乙女の寝室に忍び込むのは重罪です!」

「怪異に法律は通用しません」

狐面の少年は、開き直ったように答える。

「怪異は、ハレンチなんですね」

「その言い方は止めてください」

狐面の少年は、肩をすくめながら苦笑した。「まぁ、そんなところも愛しいのですが」

「へ?」

「ですが、破廉恥呼ばわりはさすがに困りますので……私は一応、『水月』という名前になっているんですよ」

「そんな他人事みたいな言い方」

「名前なんて、ただの一固有名詞にしかすぎません」

そう言うと、狐面の少年は莉世に顔を向ける。先ほどさらりと吐かれた言葉に気まずくながらも、莉世も狐面の少年を見る。

「さて、もう時は待ってくれません。夢うつつになるのもここまでです」

先ほどと変わって緊迫した空気に息を呑む。狐面の少年の言葉にはそれほど貫禄があった。

「何か、わかったの……?」

「はい。私から説明したいところですが……あとは蒼にお任せします。あまりあなたに接近すると、嫉妬するようですので」

「僕は嫉妬なんてしない」

「盗み聞きは良くないですよ、蒼」

狐面の少年は、口調を変えて会話する。まるで、北条と水月が会話しているような錯覚に陥った。

自問自答を終えたのか、狐面の少年は狐面を横にずらす。その下から北条の顔が現れた。

「北条くん……!」

「あぁ。いきなり悪い」北条は、淡々と答える。

凛々しい表情からも、恐らく憑いていた『水月』から切り替わったのかもしれない。

普段の北条だと感じられ、莉世は安堵した。

だが、次第に、ふつふつと怒りが湧いた。

「……もっと私たちを、信頼してよ」

「え?」北条は面食らう。

「どうして私たちに何も言ってくれなかったの? 少しでも協力できたかもしれないのに……東くんも私も、不安だったんだよ……」

莉世の言葉に、北条はしばらく目をパチパチさせた。

「昨夜、急に呪石の封印が解けたから、すぐに追うしかなかった……」

「相手は環なのに、一人で敵うと思っていたの?」

「い、いや、それは……」

「怪異を侮ってはいけないって言ったのは、北条くんだよ」莉世は、感情的に叱る。

彼女の剣幕に押され、北条は「わ、悪い……」とついぞ観念した。だが、北条は堪えきれず表情を崩す。莉世は頬を膨らませる。

「何がおかしいの」

「いや、悪い。何でもない」

北条は軽く手を振ると、咳払いする。

「でも、環は僕に関心を示さなかった。彼女の目的は別にあったんだ」

「目的って?」

北条は、しばらく黙り込むが、やがて莉世に顔を向ける。

「目的は莉世、君を殺す為だ」

「え?」

あまりにも予想外の言葉に、腑抜けた声が出る。「な、何で私……」

「とにかく今は、一人でいるべきではない。だからうちに来てもらう」

「うちって……きゃあっ!」

答える間もなく、北条は莉世を抱えた。

「ちょっ、ちょっと!」

「心配するな。君の父親も了承済みだ。鬼神もいれば、何不自由ない待遇でもてなす」

「そ、そうじゃなくて……」

莉世は口籠りながら言う。「お、重いって……」

北条はきょとんとするも、軽く笑う。

「そんなことか」

「そんなことって……きゃっ」

北条は、莉世を抱えたまま窓枠に飛び乗った。重力を感じさせないほどの身軽さだった。

「……北条くんって、結構強引だよね」

「何のことやら」北条は軽く流す。

「落ちたくなければ、しっかり掴まっておけ」

「は、はい」

莉世は、北条の首に腕を回してしがみつく。北条は、割れ物を扱うように莉世を大事に抱えた。

北条は、軽く膝を曲げると、一気に跳躍した。



すでに皆既月食は終えたようで、月明かりが街を照らす。夜の空を、莉世は旅していた。

屋根から屋根へと飛び移るだなんて経験は当然初めてで、漫画でしか見たことがなかった。案外気分が良いものなんだと知った。

莉世は、無言で空を飛ぶ北条に視線を向ける。狐面はサイドにずらしていることから、美しい顔が至近距離にあった。思わず見惚れたが、北条が視線を落としたことで露骨に顔を背けた。

西久保が鬼に襲われた時もこんな感覚だったのか、と思い返す。これは、惚れても仕方ない。

そこでふと、昨夜の北条を思い出す。

「ねぇ、北条くんってさ……一体何者なの?」

「何者、とは」

北条は表情を変えずに答える。「人間?」

「質問の仕方が悪かった……。昨日、北条くんが私に言った言葉。あれってどういう意味なの?」

――――大切な人は、例え生まれ変わろうとも忘れはしない

そう言って北条は、莉世にキスをした。

彼の行動や西久保の件から考える余裕もなかったが、今思えばよくわからない。

北条はしばらく黙り込むと、顔を空に向けた。

「『輪廻』という言葉を知っているか?」

「輪廻、って輪廻転生?」

「あぁ。人間の魂は、輪廻転生を繰り返している。名前や容姿は変わろうとも魂は繰り返し回されている、という思想だ。いや思想ではなく、実際その仕組みなのだろう。そして」

そう説明すると、北条は目を伏せた。「僕には、僕の魂を所持した人物、前世の記憶がある」

「そんなことが……?」

「あぁ、君の未来を視る能力と似たものなのかもしれん。今は『北条蒼』という器に入っているだけで、この魂を所持していた人物の見た現実は把握している」

北条は、中学生でありながら大人な空気が漂っていた。環や怪異についても妙に詳しかった。

実際、彼の目で見たとなると、それも納得できる。『北条蒼』の器はまだ十三年目でも、人生を何度も経験しているのだから。

「もしかして、過去の環の騒動も、実際見たの?」

「あぁ。器は違うが、実際その場にいたように覚えている」

しばらく間があった。莉世は北条の言葉を待った。

北条は、唾を飲み込むと、背筋を伸ばした。

「そこで僕は『燐音』と出会った」

「燐音……!」

夢で聞いた名前だ。

北条は、静かに莉世を見る。

「燐音は、君の前世だ」

その言葉を聞いた瞬間、莉世の脳内に夢が一気に再生された。

――――燐音がここに来てくれるなら……毎年一緒に見ようよ…………

――――毎年一緒にホタルを見ようね。約束だよ

少年少女の、平和で幸せな日常だった。

「私の夢にも何度か出てきたの……見たことのない男の子と女の子が、藍河稲荷神社で話している光景が……」

そう口にするが、北条は黙ったままだった。

――――普通の人間に生まれ変わって、こうして紫翠くんとまた出会いたい

――――僕は必ず燐音を見つけるよ

――――生まれ変わるたびに、僕は燐音に出会うから。そして――――ずっと、燐音の傍にいるからさ

緊張で鼓動が速くなる。

全身に熱が帯び始めた。恐らく自分を抱えている北条にも体温の上昇は伝わっている。

夢の続きを見ているのだろうか。

恥ずかしくて顔が上げられない。

燐音が私の前世であるならば、あの少年は――――

「北条くんは………紫翠、くん……?」

おずおずと顔を上げた。

北条は優しい表情で莉世を見つめた。昨日見せた、あの温かくて柔和で、どこかあどけない笑顔だった。

「……そうだ。僕の前世は『北条紫翠』。あの時に、必ず燐音の傍にいると誓った、紫翠だ」

そう言うと、北条は莉世の額にキスをした。突然のスキンシップに、急激に顔が熱くなった。

「ちょ、ちょっと、北条くん……!」

慌てて身体を押し返す。

北条は、はっと正気に戻ったように表情が固くなる。

「…………悪い……」

身体を退けたことが気になったのか、急にいじらしくなる北条に、慌てて手を振る。

「いや、びっくりしただけ……。普段の北条くんと違うから……」

「たまに記憶が入り乱れる。今は別の器だというのに軽率だった」

北条は無愛想にそっぽを向く。堅い言葉でありながら年相応にいじける北条がおかしくて莉世の顔は緩む。

何人もの人生を経験しながらも、『北条蒼』という器は、やはりまだ中学生なんだと感じられた。

夢で視た少年少女の会話から、最近の北条の言動の変化も理解した。全ては燐音の魂が宿った莉世に会う為なんだ。

「でも、だったら何で初めて会った時、あんなに無愛想だったの? 言ってくれればよかったのに」

入学式の日を思い出した。一番に教室に辿り着いた北条に莉世から声をかけていたが、彼は無視した。

「初対面の人間にいきなり前世の話をされても君は理解できないだろう。むしろ警戒されるはずだ」

「確かに、あの時の私はそうか……」莉世は苦笑する。

前に北条に「過去は視ないのか」と聞かれたことを思い出す。あの時は夢についての話題だと考えていたが、もしかしたら自分が記憶を所持しているのか確認したかったのかもしれない。

莉世は隠しきれないニヤケを表情に示す。そんな彼女に気づいた北条は僅かに口元を歪める。

幸せそうな二人の日常。

二人は最後、どうなったのだろうか。

恋人になったのかな、結婚したのかな。

そういえば、まだ夢で視ていない。

自分のことではないが、妙に歯痒くなる。

「ついたぞ」

はっと我に返ると、朱塗りの大きな鳥居が目に飛び込んだ。

☆☆☆