次の日。
春明の姿は、虹ノ宮藍河区某所にあった。
木製の門の奥には、広い平屋と庭が広がる。石畳に大きな井戸、玄関には『浄化隊』と記載された旗が掲げられていた。
「やっぱ、春明には敵わねーかぁ」
平屋縁側で息をつく青年、松風 早天(マツカゼ ハヤテ)は、ははっと笑いながら観念する。臙脂色の和服にヘアバンドを着用、傍にあるりんごジュースを手に取ると、ごきゅごきゅ音を鳴らして飲み干した。
「春明さんバケモノッスよね。物の怪級と言いますか」
松風の隣に座る少年、左門 彰(サモン アキラ)は、頭に巻いたタオルで汗を拭う。袖のない黒服を着用し、観念したように笑う口元からは、無邪気に八重歯が覗いた。
「それ、誉め言葉には聞こえんが」
縁側前の庭に立つ春明は、両手を広げながら苦笑する。軽く乱れた和服で、手には木刀を所持している。
虹ノ宮の自警団である『浄化隊』。警察では手に負えない『対物の怪』専門の集団として名が知られていた。ここに所属する者たちは、物の怪を浄化する為の神札を操る能力を所持する。所属人数は、十三人。皆、十代~二十代と若者であり、体力もあれば、住民から人気もある。
その浄化隊で、春明は頭首だった。
「では、次は私が相手だ」
貫禄ある声で登場したのは、大柄な女性、日向 静(ヒュウガ シズカ)だった。胴には剣道の防具を着用し、ハネのない真っ直ぐな髪を後ろで束ねている。手には竹刀を携え、見るからにやる気に感じられた。
彼女から溢れ出る殺気に、春明は慌てて手を振る。
「待って待って。ちょっと休憩させてくれない?」
「あ、春明、ビビってる」松風は茶化す。
「俺、おまえら相手した後だから不利だろ。日向、手加減しないし」
「私は常に、全力だ」
日向は、竹刀を両手で構えて体勢を整える。
「お、おい、乱丸はどこ行った。あいつなら喜んで相手するだろ」
「さっき『一狩り行く』って、ここ飛び出した気が」
「あいつはまた、意味不明な行動を……」
「ははっ、まぁ少しくらい良いじゃねぇか。最近、平和なんだしさ」
「ようし、ならオレが相手するッスよ、日向さん」
左門は、木刀を持つと、ピョンッと跳ねるように縁側から腰を起こす。左門と入れ替わるように、春明は縁側に腰につく。松風から、りんごジュースの入ったコップを受け取ると、一気に飲み干した。
「オレの方が年上だしな。その分、体力がないんだわ」
松風は、唇を尖らせながら言い訳をする。
「一歳しか違わないだろ。それに、身軽さでいえばお前が一番だ」
「それだけしか、勝るところはないんだけどな」
当時、春明は二十四歳、松風は二十五歳、左門は十六歳、日向は二十八歳だった。縁側前の庭では、十以上歳の差のある左門と日向が、互いに手加減することなく剣の手合わせをする。
「おまえも、守るべき存在が生まれれば、さらに強くなるさ」春明は、空を見上げながら口にする。
「ははっ、惚気るのは勘弁してくれ」
松風は、手を振って軽く受け流す。「オレには想像できねーなぁ」
「モテるくせに、結婚は考えていないのか」
松風は、壁を感じさせない人当たりの良さに爽やかな振る舞いからも、女性人気が高い。浄化隊の中でも、彼に好意を寄せている人物はいる。
少しは自覚があるのか、松風はやりずらそうに頭を掻く。
「そーだなぁ〜オレ結構、無責任だし。でも年齢的にも、そろそろ考えてみるのもありかぁ」
「あぁ、育児の相談ならいつでも乗ってやる」
「まだ相手もいないのに、気が早いって」
庭から「日向さん、タンマ!」と左門の悲痛な声が響く。「日向って、手加減って言葉知らないよな」と松風の呟きに、春明は目を細めて同意した。
春明の中で、ひとつ決めていることがあった。
来月、二十五歳になる誕生日を迎えると、この浄化隊を引退する。
物の怪を相手にするだけ、危険は常につきものだった。仕事のたびに妻の音葉や娘の燐音に不安をかけていることが気がかりだったのだ。
たとえ贅沢な生活はできずとも、少しでも家族との時間を大切にしようと考えていたのだ。
だが来月、予想外の出来事が起こる。
★★★
「音葉が、帰ってきていない?」
仕事から帰宅した春明は、顔を強張らせながら問う。
「そうなの。今朝、買い物に行くって言ってから、まだ帰ってきてないのよ」
一緒に家に住む春明の母は、困惑した表情で言う。
時刻は、午後九時。
近所の店も、とっくに閉店している時間だ。
「探してくる」
春明は、脱いだ羽織を再び着用し、玄関へ向かった。
「ママ、いないの……?」
靴を履いていると、娘の燐音が姿を見せる。細くしなやかな髪を手でこすり、小さな体躯には大きいうさぎのぬいぐるみを所持している。寂しさを紛らわす時にいつも抱きしめているものだ。
「あぁ……。でも、大丈夫だ。パパが必ず一緒に帰ってくるから」
安心させるように娘の頭を撫でるが、そこで「森……」と燐音は呟いた。春明は手を止める。
「あの、真っ赤な神社の森……」
予想外の言葉に、春明は目を丸くする。
この辺りで真っ赤な神社と言えば、藍河稲荷神社の鳥居のことだ。あの神社奥には、山に続く森もある。
まさかその森に、音葉がいると言いたいのだろうか。
しばらく静止するも、すぐに意識を戻す。
「わ、わかった……燐音はお婆ちゃんたちとお留守番しているんだよ」
頭を捻りながらも、春明は家を飛び出した。
★★★
「森、か……一応、行ってみるか……」
春明は、小走りで街を見回しながら呟く。
何故、燐音がいきなり具体的な場所を口にしたのかがわからなかった。
まだ五歳の子どもであるだけ、言動や思考を理解するのは難しい。だが、まるでその場に音葉がいると言いたいような発言だった。
藍河稲荷神社裏の森に辿り着く。そこで、異変に気付く。
春明は、懐の神札に触れながら森に入る。仕事柄、気配には敏感だった。
この森には、物の怪がいる。今まで数えきれないほど物の怪と対峙してきたんだ。夜の森であれど、恐怖は感じない。むしろ、大切な人を守る為ならば力が漲る勢いだった。
ザァッと木々が揺れると同時に気配を感じて振り返る。構えたものの、そこには予想外、煌びやかな着物を身に纏った女性が立っていた。
飛び掛かってくると想定しただけ軽く気が抜ける。
「春明、ですね」
女性は、恍惚とした笑みを浮かべながら言う。
「……誰だ」春明は警戒しながら問う。
「妾は環。お主には先日、大変世話になった。だからひとつ、お礼をしようと思ってな」
「お礼をされるようなことをした覚えはない」
春明は全く心当たりがなかった。家族を持ちながら女性と遊ぶような軽い性格を持ち合わせていない。
だが、環は答えず、代わりに紐を引っ張るような仕草をした。木陰から現れた存在に目を見開く。
「音葉!」
木陰から現れたのは、音葉だった。口は布で塞がれ、両手を縛られている。その結び目から伸びた紐を環が所持していた。音葉の顔は、真っ青だった。
カッと目の前が熱くなった。
「おまえ……!」
咄嗟に近づくが、環は即座に腕を前に掲げる。
「のうのう、熱くなるな。これはおまえの為でもあるんだ。この女はな」
そう言うと、環は音葉の頭を軽く叩く。
身体が反応するも、突如、目前が白煙に覆われた。
必死に煙を掻き分け、目に入ったその存在に息をのんだ。
白煙の中から現れた影。一人は環で、もう一人は音葉の容姿でありながらも目を見張る存在。頭部に狐の耳、腰には二本の尻尾が生えている。
完全な妖狐の姿だった。
「わかっただろう。おまえの女は、人をたぶらかす妖狐じゃったんだ。おまえの敵となる物の怪なのじゃぞ」
環は高らかに言う。音葉は何か弁解しようとしているが、口が塞がれているので発言できていない。
確かにこの森に入った時に、物の怪の気配は感じた。それは、妻の音葉の気配だったのか?
「音葉とは、毎日一緒にいる……その時には気配はしなかった」
「妖力の高いものは、気配を隠すことも容易い」
環は当然のように答える。
「それにもう一つ。この女には、妖狐との間に子がいたんじゃよ」
「え?」金槌で頭を打たれた衝撃が走る。
「すでに夫の方はいないようじゃがな。つまりおまえは、この女狐に弄ばれていただけじゃ」
音葉を見る。彼女は、顔を歪めるも、弁解する気は感じられない。
全身の血の気がさあっと引いた感覚になった。
「なぁに、心配せんでも良い。この女の抜けた穴は、妾がたっぷりと埋めてやるぞ」
環は艶やかな声で言う。音葉は、目に涙を浮かべて春明を見ていた。
春明は、現実を受け入れるのに時間がかかった。
藍河稲荷神社の霊獣のように人に害を為さない妖狐「天狐」もいるが、「野狐」の場合は、物の怪寄りであることが多い。
今まで仕事で、何度も妖狐と対峙した。その存在が、自分の一番近くにいたということだろうか。
それに、子どもがいたという話も初めて聞いた。
正直、少しだけ不安になった。来月の誕生日には危ない仕事から身を引き、家族を養えるほどの給料の職で、家族第一に生きると決めていたのだから。
だが、春明の音葉に対する感情に、ブレはなかった。
「……それでも、俺は音葉を愛している」
春明は、はっきりと口にした。
「例え彼女が妖狐であろうとも、子どもがいたとしても、俺が音葉と人生を共にすると誓った感情に、嘘偽りはない」
春明は力強く答える。彼の強い感情に、音葉は目からボロボロと涙を流した。
環は、顔を露骨に歪ませた。
「……そうか。言っても意味は為さぬということか」
そう言い残すと、環はドンッと音葉を春明に押しやる。春明は、急いで音葉の口の布を解く。
「春明……春明……!」
音葉は、号泣しながら春明に縋る。「ごめんなさい……私、私……」
「音葉が無事で安心したよ」
春明は、音葉の背中を温かく擦った。
ハッと違和感を感じて顔を上げるも、環の姿はいつの間にかなくなっていた。先ほどまで感じた強い妖力も消えていることから、彼女に何か憑いていたか、と春明は口を曲げる。
だが、今は音葉が心配だった。
「燐音も心配している……さぁ、帰ろう」
春明は、音葉の身体を支えながら家路についた。
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