3時間目:地理2



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視界は、暗い。

湿気の帯びた雑草の青臭い香りが鼻孔を擽る。

ドボンッと石の深く沈むような音がする。水辺だとわかるが、川のように流水音はしなければ、海のように波の音も聞こえない。

ここは、池か沼だろうか。

「ばか! もう少し警戒しなさいよ」

甲高い通る声が響く。聞き覚えのある西久保の声だ。

「恐らく物の怪は、ここにいる」

冷静で落ち着いた声も続く。この声は北条だろうか。

「み、みんな……」

今では馴染みとなった声。安心できる力強い仲間の声だ。

だが、視界は暗いままだ。だからこそ、判断できる。

この夢は、恐らく「悪夢」だ。

特訓を始めてからずっと待ち焦がれていた物の怪の訪れる現実、私たちの成果を試す時がきたんだ。

それなのに、夢の中の私はいまだ目を開けていない。

いつまで、目を閉じているのだろうか。

いつまで、現実から目を逸らしているのだろうか。

今までは、恐怖から目を開ける勇気がなかった。

現実を見てしまったら、受け入れなければいけない。

仲間の悲惨な状況を見たくない。

しかし、もう私は決めたんだ。

莉世は、恐る恐る目を開ける。

そこには、目を疑う光景が広がっていた――――

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時刻は、午前七時〇分。

布団から身体を起こした莉世は、呆然としていた。

「夢……」

昨晩、例の悪夢を視た。悪夢だと知りつつも、自らの意志で目を開けた。

だが、この気分は何だろうか。具体的に理由はわからないが、妙に引っかかりを覚えていた。パズルのピースで絵柄は合っているのにかっちりはまらないような気持ち悪さを感じていた。

感じる音、声、行動、全て今後起こるであろう未来と一致しているのに、視覚から入る映像にどこか違和感がある。

でもわかっていることは、これが今後訪れる未来であるのは確実だということだ。

「でも……これで、やっと浄化を始められるんだ」

起きたての頭は、余計に回らないものだ。今はとにかく悪夢を見た現実を仲間に伝えるべきだ。

莉世は、大きく深呼吸すると、学校の支度を始めた。

八時になる前に学校に到着する。

教室に入ると、やはり北条は来ていた。

「物の怪が、出る!」

席に着くなり、北条に報告する。

妙に意気込んでいる莉世に、北条はしばらく目をパチパチさせる。

「君って、そんな性格だったっけ」

「え、あ、いや……」

一人で舞い上がっていたことに遅れて赤面する。

「ずっと、パパが一人で頑張ってたっていうからさ……私にできることなんて、夢を見るくらいしかできないし……」

今までの警戒心丸出しの自分とは全然違うとは自覚している。だが、白髪の青年や鬼神から悲惨な過去を聞いただけに、少しでも役に立ちたいと思ったんだ。

そんな莉世を北条は一瞥すると、「今日行こう」と一言だけ呟いた。

☆☆☆

時刻は、午後四時三十六分。

莉世たちは学校を後にし、山の麓にある池まで向かった。池は、学校と神社の中間、山よりの方向のようで、神社周囲よりも自然の広がっている。

道端の草原や土は水分を孕み、もう間もなく梅雨入りだと伝えている。森林に冷やされた風は心地良くて空気が美味しく感じた。

「今日は『一消池』かぁ~」

東は、空を見ながら呟く。「確か、タクシーに乗った女の人が池に着いた時には消えて、座席がびしょびしょに濡れている噂が有名だったっけ」

「でもそれだけだと『物の怪』にはならないよね」

西久保は冷静に思案する。

「多分、別の怪異だと思う……」

莉世は、夢を思い出していた。

池であるのには間違いない。その池から女性が現れ――――

そこで、映像は途切れている。まさに今回も襲われる瞬間に目が覚めていたのだ。東の話す怪異のようにタクシーは出てきておらず、明らかに池から姿を見せていた。

たまらず身震いする。目を開けるようになったものの、物の怪に慣れるはずがない。

山の麓の一車線走れるほどの道を進むと、森林に囲まれた中に池が確認できる。水面には藻が浮かび、水底も見えない。雨水や水草の溜まった深緑の池は、日の沈んだこの時間に訪れるだけでも雰囲気があった。

植物の湿った青臭い匂い、この空間だけじっとりとした湿気を帯びている。

この光景や匂い、空気。夢で感じたものと一致していた。

「もう少しきれいだったら『秘境』とか呼ばれている場所だよねぇ」

「だな。ちょっと荒れ過ぎてんぜ」

そう言うと、東は怯えることなく池の近くへ向かう。

「東くん……! 気をつけて」

莉世がそう言った瞬間、池から何かが這い出る。まるで水中生物のように、音もなく陸へと上がる。

あまりにも自然に登場したことで、それが人間だと認識するのに時間がかかった。

「東くん!」

「お?」

「ふふふ……会いに来てくれたのね……嬉しい……」

池から這い出てきた髪の長い女性は、莉世たちを見て笑う。

血色の感じられない青白い肌に骨ばった腕、長い髪には藻や水草が絡んでいた。

「も、物の怪……!」

「西久保」北条は強い声で振り向く。

「ちょっ、ちょっと待ってよ……!」

こんなにすぐ現れると思っていなかったのか、西久保は慌てて鞄を探る。その隙にも、物の怪は池から少しずつこちらに近づく。全身が池から抜けた瞬間、ざばぁと水音が鳴った。

東は、はっと物の怪の場所を把握する。

「なるほど。そこか」

そう言うと、東はパンッと腕を鳴らしながら物の怪に近づく。怯えの感じられない東の態度に、物の怪の顔は心なし綻ぶ。

「ちょっと猿……!」

「俺には怪異が見えねぇ。だが」

東は両手をパンッと鳴らすと、手のひらを物の怪に掲げた。

「どうやら俺は『怪異』に対して最強な体質のようだ」

東が高揚気味に叫ぶ。それと共に、物の怪の行動が制止する。

気のせいなのか、今一瞬、宙に五芒星が浮かんだように見えた。

「何あれ……」

「物の怪を『呪縛』している……」

北条は、東を注視しながら言う。

「あいつの体質は、怪異の影響を受けないものだ。だからあえて怪異に近づくことで、行動を制限している」

以前、日向たちと気になっていたことだった。

怪異を恐れず先人切って行動する。

まるで、「切り込み隊長」。対物の怪の為にあるかのような体質だ。

「おいヤマンバ! 何やってんだ」

その声で西久保は我に返る。慌てて術書をめくった。

だが、東に封じられていたはずの物の怪は、突如消えるように木の上へと飛び移る。その行動は人間離れしていた。

「あれ、物の怪、消えたか?」

感覚が変わったのか、東も封印の解けたように自身の手を見る。

「ふふっ……久しぶりに人が来たのに、封印されたくはないよ……人間の子ども如きが……アタシに手出しすんじゃねぇよ!」

途端、物の怪は豹変したように口を大きく開けて莉世たちに飛び掛かる。

「きゃっ」

「ちょっ……無理無理!」

莉世と西久保は慌てて逃げる。足がもつれながら醜くも藻掻いた。

その瞬間、シャリンッと心地良い音が鳴った。物の怪の肩の上に、白い狩衣を来た狐面の少年が立っていた。瞬きするほどの僅かな時間だった。

「私と遊ぼう」

少年はそう言うと、物の怪の肩を蹴り、木へと飛び移る。つられるように物の怪は、少年に振り向く。

「アタシを足蹴にするな……!」

「狐の人!」

西久保の声で、物の怪は正気に戻る。

狐面の少年を追いかけようとしていた体制を整え、西久保に向き直る。それに気づいた狐面の少年も、慌てて足を止める。

「あっ」西久保の顔は強張る。

「西久保さん!」

「和奏!」

物の怪は、西久保に飛び掛かる。

その瞬間、パカンッと硬い何かが割れる音が鳴った。

間一髪、狐面の少年は西久保を庇う。だが、物の怪の攻撃がよけきれず、仮面が割れてしまっていた。

頭にも直撃したのか、狐面の少年はそのまま地面に倒れ込む。

東はその隙に物の怪に手をかざす。物の怪は呪縛されたかのように行動が制止した。

「あ、あなた……て、え?」

西久保は慌てて少年を覗き込むが、顔は一変する。莉世も目を丸くしていた。

「おい馬鹿。今は浄化だ」

東の声で我に返った西久保は、慌てて術書を開く。

「『この地に放流した憐れな物の怪たちよ。その魂を浄化し再び命廻されるまでは静かにお眠りたまえ』」

物の怪の醜い声が響く。浄化が完了した。



久しぶの浄化であるにも関わらず、莉世たちは意識がそれていた。

三人は、いまだ倒れている狐面の少年のそばに寄ると、顔を見合わせる。

「どう見ても、北条だよな……?」

「う、うん……」

白い狩衣を着用し、辺りには割れた狐面が散乱している。先ほどまでと服装は違うものの、その顔はまさに北条だった。

途端、シュウウと煙が湧き上がる。みるみるうちに北条の服が学ランへと戻った。

「お、おい、北条、大丈夫か?」東は、北条を揺する。

「仮面が割れたんだし、頭も打ったのかも……」

しばらくすると、北条は、はっと身体を起こす。

目を覚ましたことに、三人は小さく安堵する。

「北条くん……」

莉世の呟きに、北条は正気に戻る。

無言で状況を把握していたが、割れた狐面を確認すると、観念したように小さく息を吐いた。

「北条が、狐の人……?」西久保は動揺していた。

「おい、北条。おまえがあの狐野郎だったんか?」

東は直球に問う。

「……そうだな」北条は隠すことなく答える。

「北条くんって、人間だよね……?」

「でも、だったらあの身体能力は何なんだ」

「狐の人かぁ……」

莉世たちは疑問を口々に言う。

北条はしばらく頭を掻くと、左腕の袖を捲り、皆の前に掲げた。そこには、数珠のようなブレスレットが付けられていた。

「僕は、怪異を身体に憑依させていた」

「か、怪異を……?」無意識にたじろぐ。

「鬼神と同じと考えて良い。神社に仕える霊獣を身に纏う『狐憑き』と呼ばれる北条家を護るための代々伝わる呪術だ。それによって、人離れした身体能力を得ていたんだ」

そう説明すると、北条はやりずらそうに目を背ける。

「鬼神は、呪石の見張りで神社の結界を抜けることができない……君たちだけで物の怪に立ち向かわせるのは危険だった。だから僕がついていただけだ」

北条はぶっきらぼうに言う。その顔には、やりずらさが感じられた。

「北条が……狐面の人だったんだ……」

西久保は、高揚を耐えるように頬を強張らせていた。

時刻は、午後六時。

この場まで聞こえる鐘の音により、池を後にした。

☆☆☆