第五セメスター:五月⑤



 あの日から、海老原くんは天文部に顔を出さなくなった。それと同時に、良くない噂が流れ始めた。

「海老原くん、最近学校来ないでしょ。なんかやばい人たちに巻き込まれたみたいで」

「知ってる。マルチでしょ」

 地獄耳なのか、部員の話す声が届いた。
 マルチ商法。先輩から後輩などに声をかけて広がる勧誘商法だ。大学生が陥りやすいものは大抵違法性がある。
 信じたくなかった。海老原くんがマルチに巻き込まれたというのだろうか。 
 とはいえ、私が彼の為に何かできるわけない。

 海老原くんのマルチ商法の噂は、しばらくは知らないフリをした。
 だが、話題は次第に大きくなった。

 天文部の後輩も巻き込まれそうになったのだ。

 部活開始時間。全体ミーティングを終えると、天草は三年生だけ残るように指示した。

「知ってる奴もいるかも知れねぇが、うちの部員の一人がマルチに関わっている」
 天草は単刀直入に切り出した。彼の言葉に、部員たちもつばを飲む。

「このことは学生部の職員にも伝わっている。できるだけ部内で留めるためにも、俺らがしっかり後輩を見る必要がある。班活動で後輩に接する時などいつも以上に気を配ってほしい」

 私たちは頷く。マルチに巻き込まれやすいのは、違法性を知らない後輩が多い。私たち三年が揺らいではいけない。
 そう頭ではわかっているのに、顔が強張ってしまった。感情が顔に出やすい点がつくづく嫌になる。

 私が彼の気持ちに答えると、彼はこんな人生を歩んでいなかったのだろうか。私はまた、一人の人生を狂わしてしまったのか。
 手が震える。私は普通に愛してもらえないのだろうか。

「空」
 
 声をかけられてハッと意識を戻す。顔を上げると、天草が私を見ていた。
 周囲を見ると、すでに皆、活動教室へ向かっていた。

「あいつはみんなに誘ってんだ。これは天文部の問題だ。空だけがどうにかできる問題でもない」

 私が何を考えていたのか解ったのか、天草は強く言う。

「ごめんなさい。私のせいだと思ってしまって……私のせいで……海老原くんの人生が狂って……」

 何の感情かわからないが、涙が溢れそうになり、言葉が詰まる。
 土屋さんの時もそうだった。私と別れた瞬間、学校もバイトもやめ、研究室まで辞めて、最終的には……。
 また誰かの人生狂わせてしまったんだ、と不安になった。

 顔の強張りが解けない。それだけ自己嫌悪に陥っていた。

「私は、もう、誰かと関わるのを、やめたほうがいいのかな……」

「そんなこと言うな!」

 天草は、厳しく指摘する。怒気の孕んだその声に思わずビクリと肩が反応した。
 天草は、私に近寄り、肩を掴む。まっすぐに私に視線を向けた。

「今、おまえの一番近くにいる俺が、人生狂ってるように見えるのか?」

 入学時、新歓の時から近くにいる人物、天草だけは、付き合ってからも変わっていない。芯の強さを持っていた。

 厳しい視線をしていた天草は、ふと目元を緩める。

「まぁ、確かに……思考がおまえのことで支配されてるってことは、狂ってんのかもしれねぇが……正直、恋愛なんてそういうもんじゃねぇのか。例えるなら、おまえは一等星だ」

「だいぶクサイよ」思わず吹き出しそうになった。

「うっせ。恋は盲目、っつーだろ。人間は理屈で行動できねぇもんだ。おまえはそうじゃねぇのかよ」

 天草は、ふてくされたように言う。その顔がどことなく拗ねた少年のように見えて愛しくなった。

「うん、そうだよ。恒星のことばかり考えるから、嫉妬しちゃったりするもん」

 そう伝えると、天草は満足気に頷いた。

「……と、まぁ、恋愛なんて周りが見えなくなるもんだ。おまえのせいじゃねえ。だから気にすんな」

 ポンッと私の頭に手が置かれる。天草の大きな手で頭が包まれ、じんわりと温かくなる。

 天草は、「しかし」と顎に手を当てた。

「マルチは問題だな。ミーティングでは言わなかったが、海老原はもう部活もやめるって言ってんだ」

「そうなの?」

「あぁ。マルチをビジネスだと思ってるんだろうな」

 再び悪寒が走る。だが、先ほどの天草の言葉で負の思考を打ち切る。

 これは、海老原くんを思ってのことじゃない。私のケジメのためだ。

「恒星。もう一回、海老原くんと話していい?」

 気づけば、そう訪ねていた。




***

 次の日、私は海老原くんを学校に呼び出した。
 しばらく姿を見ていなかったが、連絡をした次の日に会う予定が決まった。自惚れているが、まだ私優先のところは変わっていないようだ。

「まさか、空さんから会いたいと言ってくださるとは」

 海老原くんは、笑顔で言った。長かった前髪は後ろに流し、シワのないスーツ姿で背筋が伸びている。営業ビジネスマンに見えた。
 以前と見違えるほどに変貌していた。

「最近、楽しんですよ。仕事をしていると、人から求められてる感じがする。生きてるって感じるんです」

 海老原くんは、両手を広げた。マルチを仕事を呼ぶことについては、この際触れない。

「部活、辞めるの?」
 彼に流されないよう、私は冷静に尋ねる。

「はい。仕事が忙しいので。学校も辞めるかもしれません」

 咄嗟に悪寒。顔も強張った。

「海老原、くん」

 私は、できるだけ気丈に振る舞う。だが、僅かに声が震えた。そんな私を海老原くんは、背筋を伸ばして見守る。以前と立場が完全に逆転していた。

「部活より、仕事の方が楽しいの?」

 そう問うと、海老原くんの表情が僅かに曇った。まだ根幹まで染まってはいないようだ。

「……もう、無理なんです」

 しばらくの沈黙後、海老原くんは口を開く。その声は、先ほどまでとは違う、素のものだった。

「認められたのが嬉しくて、僕は、もう引き返せないところまで来てしまいました」

「い、今なら、まだやり直せるよ」

 無責任に、そう口走っていた。海老原くんは、目を丸くする。

「海老原くんの今やってる仕事、法学部だし、違法性があるのは知ってるでしょ。だからもう、マルチなんて……」

「じゃあ、僕の彼女になってくれますか?」

 ピタリと身体が静止した。海老原くんに顔を向けると、あきれたような、そして悲しそうな瞳で私を見ていた。

「僕を連れ戻してくれますか? 居場所をくれますか? できないでしょう。天草さんがいるんですから。そう仰いましたもんね。無責任に引き止めないでください」

 ピシャリと言われて静止する。返す言葉もなく口を噤む。

「僕は空さんと空が見たかったんです。それだけ本気だったんです。お金に余裕もできた今なら、自信があります。養うことだって、できます」

 そう言うと、海老原くんは、私を見つめた。

「空さん。僕と一緒にいてくれませんか?」

 前髪があげられ、まっすぐに届く視線。背筋も伸び、自分に自信が持てるようになったと感じられた。

 私は唾を飲み込む。ここまで力強く想われても、私の考えは変わらなかった。

「ごめん。気持ちには答えられない」

 はっきりとそう答えると、海老原くんは、一瞬寂しそうな顔をするが、すぐに視線を上げる。

「わかってました。これで踏ん切りがつきました。これからは新しい人生を歩みます」

 海老原くんは、歩き始める。
 私には止める権利がない。例え私が道を踏み外すきっかけになってしまったとはいえ、彼が決めたのならば、これ以上邪魔をしたくない。
 
「後輩には、もう声をかけないで」

 部活は恋愛とは別だ。
 海老原くんは、立ち止まり、空を見上げると「仕方ないですね」と軽く笑った。

「空って名前はズルいですね。顔を上げれば必ず目に入る。絶対に忘れることできないじゃないですか」

 海老原くんは、では、と軽く手を振りながら、再び歩き始める。その背中を静かに見送った。

 もう二度と会うことはないのだろうな、と内心思った。

「終わったのか」

 部室で私を待っていた天草は、短く問う。私が海老原くんと会うと決まり、天草は講義があるにも関わらず念の為にと部室で待機してくれていた。

「うん。もう大丈夫だから」
 私は、精一杯強く、安心させるように伝える。その顔を見た天草は軽く頷く。

「お疲れ様。帰ろう」

 天草は私の頭を撫でた。大きくて暖かい手に、じわりと涙が浮かぶ。

 本当に、これでよかったのだろうか。
 私はまた、他人の人生を曲げてしまったのではないのか。

 海老原くんは、この道で幸せになれるのだろうか。
 また、「父」や土屋さんのように、自ら死を選択することに、ならないだろうか。

 解答のない問題に苦しむ。誰かがハッキリ答えを出してくれなければ、この先延々悩んでしまいそうだ。

 夕日で赤く染まった空を見上げながら、天草の家へ帰る。
 
 死は、軽くない。その要因に自分が関わっていたとなれば、延々消えない後悔に苛まれる。
 人と関わることに内心トラウマになっていたとは、この時はまだ気づいていなかった。

第五セメスター:完