数時間後、山頂に辿り着く。
外灯は無く、車のライトを消すと、視界が真っ暗になるほどだった。
他の車の人たちは、すでに下りているようだが、シルエットしか見えない。
車から降りて、すぐに後悔した。
寒い。
無意識に両手で身体を抱え込む。
六月下旬だからとなめていた。まさかこんなに寒いと思わなかった。
上級生はもちろん、天草もパーカーを持っていた。
私はアホだ。半袖ワンピースで一晩過ごせるわけがない。
でも、持ってきていないので、どうにもできない。
「少し歩いた広場まで、向かおうか」
上級生の声が聞こえる。その声に続くように皆歩き始めた。
だが、思考が観望会どころじゃなくなった。
最悪、車の中で過ごさせてもらうか――――。
「ほら、だから言ったじゃん」
土屋さんの声が聞こえたと同時に、身体に何かが被さった。視界は暗く、何が起こったかわからない。
ふっと力が抜けると、私の肩に何かがかけられていた。
「俺はブランケットあるから。それ、着ときな」
土屋さんは、私を指さして言う。その身体は、先ほどまで来ていた黒のジャケットを着ていない薄着姿だ。
やっと状況を把握した。
土屋さんが、着ていた上着を私にかけてくれたのだ。上着には、まだ土屋さんの体温が残っている。
気のせいじゃなければ、一瞬抱きしめられたかのような感覚があった。
瞬間、全身が熱くなる。心臓が鳴り止まなかった。もはや今は上着が熱いほどだ。幸い周囲は暗く、皆にバレてはいないだろう。
無意識に顔を埋める。灰の匂いの奥にラベンダーの香水の香り。 土屋さんの匂いだ。
上着に腕を通す。少し袖が余った。
全身が土屋さんに包まれているかのような錯覚に陥る。
まるで、先程のように、土屋さんに抱きしめられてるかのような――――。
パンッと頬を叩く。ただの変態じゃないか。
「空、すげーぞ」
誰かが叫んだ声に、脊髄反射で振り変える。遅れて歓声が上がった。
小さく溜息をつく。まだ慣れていないので、名前と勘違いしてしまうのも、仕方ない。
私は、皆が集まっている広場まで、駆け足で向かった。
広場に着いたと同時に、言葉を失った。
視界一面が、澄んだ濃紺。広場の周囲は木々が無く、視界が開けている。街から離れた山頂で、新月で月明かりも、雲も出ていない。
家で見るものと比べものにならない、満点の夜空だった。
「やっべーきれ〜!」
「今日はアタリの日だな〜」
皆、各々に声をあげる。
六月下旬、すでに夏の大三角が頭上に現れていた。白鳥座のアルタイルに、こと座のベガ、わし座のデネブ。白鳥座の十字もくっきり見える。
街明かりに一切邪魔されない空なので、光が近く感じる。まるで星が降ってきそうなほどに新鮮な輝きだった。
「あっ、今流れた!」
誰かが叫ぶと「流れたね!」という同意の声や、「えっ、嘘、俺見てない」と悔しそうな声が聞こえた。皆、新鮮な夜にはしゃいでる。
胸が詰まった。
皆と同じ空を見上げて、感情を共有できている今が最高に幸せだった。気を抜くと、感極まって涙が出そうになる。
こんなにきれいな空を、皆と見てみたかったんだ。
「また、泣いてるの?」
隣から土屋さんの声が聞こえて、慌てて目元を擦る。
「またって……」
「新歓の観望会でも泣いてたでしょ。天文部にそこまで情熱ある人初めてだよ」
土屋さんは笑う。私は唇を尖らせて俯く。
「ずっと……憧れてたんです。誰かと一緒に空を見ること。今までずっと一人で見てたので……だから嬉しいんです……」
恥ずかしくなり、語尾が消えそうになる。土屋さんの視線が刺さった。
「というか先輩……寒くないんですか?」
会話を切り替えるように尋ねる。
私が上着を奪ってしまったので、土屋さんは、薄い長袖姿だった。ブランケットは所持していない。
「ん〜、誰かさんに取られちゃったからね」
「やっぱり返します」
慌てて脱ぐと、冗談、と笑いながら手で制される。
「じゃあ、空ちゃんが俺を温めてよ」
「へ?」
素っ頓狂な声が出る。思わず土屋さんを見るが、暗くて彼がどんな表情をしているかわからない。
困惑していると、土屋さんが、両手を広げた。
「ほら、ぎゅってさ。人の体温って暖かいでしょ」
いつもの軽い調子で言うが、冗談にも聞こえない。
私は、警戒心マックスで構える。
「土屋さんって……女慣れしてるでしょ」
「人聞き悪いな〜。こう見えても俺、一途だよ」
ほら、早く、と急かす。私は、いまだにたじろぐ。
「……恥ずかしい」
「暗いから、わかんないよ」
ははっと笑う。私は警戒しながらも、じりじりと彼に近づいた。
恐る恐る、彼の腰に手を回す。緊張で身体がガチガチだった。
腕を回したと同時に、力強く抱きしめられる。思わず目が丸くなった。全身が、土屋さんの香りに包まれる。
「ちょっ、土屋さん……!」
「空ちゃん、あったかいね〜」
とろけるような声が届く。本当に彼の声か疑うほどに甘い声だ。
背中が撫でられる。土屋さんは細身なのに、肌は硬く、骨ばっている。私とは性別が違うんだと感じられた。
心臓が飛び出そうだ。耳元まで鼓動が聞こえるほど鳴っている。
私は、まともに男性と付き合ったことがなかった。だから男性とのスキンシップも、初めてなんだ。
耐えられなくなり、身体を離す。
土屋さんは私の顔を見ると、いたずらに目を細めた。暗闇でも伝わるほどに、顔面が赤くなっているに違いない。
「いっ、いじわる……!」
「ふふっ、空ちゃんは純情だよね」
遠くから「昴〜どこだ〜」と声が届く。
土屋さんは、声につられるように身体を向けた。
「ありがとう。ちょっとだけ温かくなったよ」
土屋さんはそのまま、声の呼ぶ方へと歩いていった。
***
空が明るくなってきた。
スマホを見ると、午前五時を回っている。
明るくなったことで、周囲の状況も確認できるようになった。
車で休んでいる人もいれば、変わらず話している人もいる。天草は、望遠鏡を片付けている。
だが、皆揃って、顔に眠気がにじんでいた。
「じゃ、そろそろ帰ろうか」
土屋さんがそう声をかけると、皆、無言で車に乗り込む。
私も、流れるように乗車した。
案外オールで起きられるものなんだと知った。だが、色々限界だった。
私は悟られないように目を閉じて、窓に身体を預ける。
思い出すたび、心臓が跳ね上がる。
私は、とんでもないことをしてしまった。
先輩の言うこととはいえ、付き合ってもいない人を抱きしめるだなんて。
手の感触が残っている。私とは全然違う、男性の体格だった。
土屋さんは、嫌じゃなかったのかな。
そんな考えが浮かぶたび、頭を軽く振る。
そもそも、嫌ならあんなことは言わないはずだ。
むしろ、なんであんなことを言ったんだろう。
変に、期待してしまう。
変に、勘違いしてしまう。
土屋さんは、誰にでも、今みたいなことを言うのだろうか。
そう考えるだけで、心が沈む。
この感情の答えは、知っている。
でも、なんだか悔しくて認めたくなかった。
薄目を開ける。車内は、運転席に座る土屋さん以外、爆睡していた。
信号待ち。ふと、外を見ていた土屋さんと目が合った。
「土屋さんは、眠くないんですか?」
「うん。空ちゃんがくれたエナジードリンクのおかげだね」
土屋さんは、いつもの笑顔で言う。「それに、ドライバーが眠そうにしてると、不安でしょ」
「土屋さんは……大人ですね」
「そんなことないよ」
土屋さんは、すっと視線を落として言う。「俺は多分、誰よりも子どもだから」
その言葉の意味がわからずに首を傾げる。
土屋さんは、ぱっと笑顔に戻ると目を細める。
「もう少しでつくから、空ちゃんも寝てな」
その言葉に安心するように目を落とした。
完敗だった。
もはや、初めて会った時から、落ちていたのかもしれない。
気づけば、頭の中は、彼のことでいっぱいだった。
私は、土屋さんを異性として好きになっていた。
第1セメスター:5月 完