第三セメスター:五月⑤



 病院に入る。開院したばかりなのに、すでに五、六人の患者が待合室にいた。全員女性だ。
 居心地悪そうにしている土屋さんを気遣う余裕も今はない。

 昨日の今日。駅近くの病院で、もちろん予約が取れなかったので、ずいぶん待たされた。
 二時間ほど経った後、名前が呼ばれる。

「検査薬では調べましたか?」

 医師がそう問うと、私は頷く。

「なら、ほぼ確実でしょう。検査しますね」
 
 そう言って検査室に促された。

 看護師にズボン下着を脱ぐように指示される。やり辛く感じながら指示された通りに行い、特殊な椅子に座る。
 医師に声がかけられ、椅子が動き始めると、脚が開かれて腰掛けていた部分が下に下がった。
 医師との間にカーテンがされてるものの、恥ずかしい体勢でいたたまれない。

「では、機械を入れます。少しヒヤリとするかもしれません」

 医師の忠告があると、下部にヒヤリとした感覚が訪れた。中に機材が滑り込んだとわかる。
 恥ずかしく感じていると、やがてモニターに何かが映し出された。
 エコーのようなカメラ映像だ。

「やはり、妊娠されてますね。ここが、その証拠です」

 そう言って画面のマウスで該当箇所を示される。確かにその部分だけふくらみがあり、違和感があった。

 やっぱり妊娠していた。夢じゃなかったんだ。

 諸々確認を終え検査が終わる。服を着替え直すと、問診室に戻った。

「どうされますか?」

 医師は単刀直入に問う。私の年齢のような子がよく来るのかもしれない。その表情には、すでに次のステップを思案している様子が見られた。

「おろし、ます」

 そう答えると、案の定医師は納得したように頷いた。

「手術の話の前に……少し、避妊についてお話しましょうか」

 そう言うと、医師は近くのファイルから紙を取り出して言う。

「避妊には、ごく一般的にゴムと呼ばれる避妊具あります。ですが避妊具をつけた場合も避妊は確実ではありません」

 医師から、避妊具なしの場合、避妊具ありの場合の妊娠率を詳細に聞いた。わかりやすく絵や図の記載された資料を元に、事細かに説明をしてくれる。やはり私のような若い人がたくさん来る病院なのだろう。

「……と、このように、妊娠を防げる一番の方法は、ピルという薬を飲むことです。飲み忘れない限り、例え膣内射精をした場合でも、妊娠する可能性は限りなく抑えられます」

 毎日決まった時間に飲む手間があり、避妊目的の場合は保険適応外になるが、避妊だけでなく、生理前のホルモンバランスを抑えたり、生理周期の管理もできることから、メリットのほうが強く感じた。

 性行為について、初めてまともな知識を得た気がした。私は術後からピルを飲むことに決める。

 話が終わると、次は手術についての説明に入った。
 
「この手術は全身麻酔の手術となり、うちでは一週間に一度、さらに一日に一件までしか行えません。なので、早くて一ヶ月後になります」

「一ヶ月後……」

 不安が顔に滲む。一ヶ月も先でも大丈夫なのだろうか。
 その不安が伝わったのか、医師は安心させるように笑顔になる。

「一ヶ月後でも問題ありませんよ。早期に気づかれたことが幸いです。漫画やドラマのようにつわりなどで明らかに身体に異変を感じられた段階だと、結構大掛かりになることがあります。早期の場合は、手術も午前中には終わりますし、入院もありません」 

 確かに先ほどカメラで確認した体内の状態では、まだ人の形すらしていなかったので頷ける。
 医師は、少し表情を曇らせる。

「ただ少し費用がかかります。この手術は、保険適用外になる為、実費で支払っていただくことになります。術前の検査費で一万円程度、手術はおよそ十万」

「十万円……」

 一瞬目の前が暗くなるが、学生の自分でも何とか払えなくはない。元々保険証は使う気はなかったので、覚悟はしていた。

「大丈夫です。宜しくお願いします」

 そう返事をすると、医師は頷き、改めて手術までの行程の説明が始まった。

***



 検査が終わり、待合室に戻る。
 土屋さんは、端の席に身を縮めて座っていた。ここは産婦人科で周囲は女性しかいない。仕方ないものだ。

 病院を出ると、近くのカフェに入った。

「どうだった?」
 ドリンクの注文を済ましてすぐ、土屋さんは訪ねた。

「やっぱり妊娠してたよ。カメラで確認した」

 そう答えると、土屋さんは視線を落とした。

「手術は一ヶ月後だって。それまでに血液検査とかあるから。それに保険適用外だって。まぁ、元から保険証は使う予定なかったけど」

 私は淡々と説明する。今は扶養家族で保険証を利用すると何らかの通知が母にいく可能性がある。母にだけは絶対にバレたくなかったのだ。

 幸い私はバイトもしていれば、奨学金もある。だから金銭的な不安は、そこまでなかった。
 何より私一人が払うわけじゃない。

「そっか……」
 土屋さんは、短く答えた。何か思案しているとはわかるが、もう少し何かないのか、と変に苛立った。

 いまだに現実味がない。
 私は、全身麻酔の手術なんてしたことがない。それに私は注射が嫌いなんだ。採血も今までしたことがない。

 やるせない。土屋さんも良い病院を探してくれたり付き添ってくれたりと、彼なりに善良を尽くしてくれているとわかるのに、やっぱり理不尽だ、と思ってしまう。

 母にバレたくない。お金がかかる。周囲の目が怖い。講義に出られない。副作用が心配だ。注射が怖い。手術が恐い。

 妊娠した身体がこちらなだけなのに、どうしてこんなにたくさん不安を抱えなきゃいけないのか。
 ずるい。彼女とはいえ、男にとったら所詮他人事だもんな、と思ってしまう。

 どうしてもっと強くゴムをつけてと言えなかったのか。
 どうしてもっと拒否できなかったのか。
 できるわけがない。性行為中に、空気を壊すような発言、できるわけないじゃないか。

 なんだか悔しくて、涙が止まらなかった。

「手術、恐いよ……嫌だよ……」

 滔々と口にした。
 子どものように泣く私を、土屋さんは無言で頭を撫でた。

***

 その日は全て講義を休み、自宅に帰宅した。
 リビングから「おかえり〜早いね」と声が聞こえるが、流すように返事だけをしてそそくさと部屋に入る。どうしても母の顔が見られなかった。

 バタン、と扉を閉めて呼吸を整える。気が抜けてのか、再び涙が溢れてきた。
 
 母の声を聞き、先ほどとは違う現実感が襲い、身内に隠さなければいけない悲しくて辛い感情だった。
 正直に打ち明けるべきだろうか。だが、口にした時の反応を考えたら言い出せるわけがなかった。

 うちは、親に恵まれていた。
 過保護まではいかないが、私の変化にはすぐに気がつくし、第一に考えてくれる。たまに鬱陶しいと思う時もあるが、心の奥では私を思っての行動だと理解していた。

 二年前に起こった出来事が、母や私もいまだに受け入れられていない。なので追い討ちをかけるように、こんな現実を打ち明けたくなかった。

 一番近くで見守ってくれていた存在に、一番言えない出来事を生んでしまった。
 その事実に悲しくなった。

 考えれば考えるほど涙が頬を伝う。いっそ現実かすら疑うほどに頭が朦朧としていた。

 涙で濡れた服から部屋着に着替える。その時に太ももの跡に目がいき、はたと手が止まった。

 目に入るたびに痛い跡。この現実やこの悲しみは、けして忘れてはいけない。

 ピリッとした痛みで頭が覚める。私は、気づけばカッターナイフを所持し、跡の隣に傷をつけていた。
 ツッと皮膚が裂け、プクプクと鮮血が溢れ出す。その様子を見て、あ、私生きていたんだ、と再確認した。

 無意識に再び傷つけていた。最初につけた傷の隣に、同じように血がジワッと溢れる。
 
 紙で手を切ったかのようなヒリヒリした痛み。次第に何をしているのかわからなくなった。

 正直に話すことができない分、罰を受けないといけない。この痛みを忘れてはいけない。
 そんな思いで、気づけば自分を傷つけてしまった。

 何をやっているのかわからない。ただ、誰にも謝罪できない罪を償った感覚になり、どこか満足していた。

 水谷さんのことを思い出した。今なら彼女が自身の手首を切った気持ちがわかる気がした。

 死にたいとは思っていないが、これで罰を受けた感覚にはなる。

 私はメンヘラなのだろうか。

第三セメスター:五月 完