蓮の部屋をノックすると、扉が開かれる。
「え、哀、早……」
蓮は少し驚いた顔で言う。
「返信するより、会いに行った方が早いかなって……」
私は恥ずかしくなって下を向く。
蓮はしばらく頭を掻くと、やがてドアを大きく開けて向かい入れてくれる。
室内に入ると、以前来た時よりも物が多くなっていた。
机上には、英語で書かれた資料が散乱し、留学に関する書籍が積まれている。
最近の彼の様子からも忙しいとは感じていたものの、日本を発つ時が迫っているのだと感じられて内心寂しくなった。
私は床に腰を下ろす。蓮はベッドサイドに腰を下ろした。
沈黙が続く。元々私はお喋りでなければ、蓮も話すタイプではない。
基本的に五人で集まる時は、渚と祐介を中心に会話が広げられることから私たちは基本的に聞き役だったのだ。
「ね、ねぇ蓮……私と蓮って、今、どういう関係?」
思い切って口を開く。蓮が中々話してくれないので、痺れを切らしたというのもある。
蓮は頭を掻きながら顔を逸らす。
「言っとくけど、私、ちゃんと蓮に言われてない」私は強調して伝える。
「私はちゃんと蓮に言おうとしたよ。でも、それを遮ったのは蓮だったでしょ」
————私……蓮が
————俺、言っただろ
蓮の部屋に話を聞きに行った時のことだ。
後に彼の本心は理解したものの、口封じされたのは事実だ。
「蓮が悪い……もう私から言えるわけないじゃん…………」
次第に顔が下がり、声が消えそうになる。
勇気を出した行動を遮られたのだから、ふて腐れもするだろう。
蓮はしばし考え込むと、腰を上げて私の隣に腰を下ろす。
「あの時は……本当にごめん」
蓮はポツリと呟く。その声は弱々しく力なく、彼の緊張が伝わった。
私は顔を上げて彼を見る。
「もし哀も俺のことが好きだってわかったら揺らぐから嫌だったんだ。言葉で聞いてしまうと、さ。だから、実力行使」
「実力行使」
私は苦笑する。「聞きたくないから、耳塞いで嫌々言ってただけでしょ」
「そうとも解釈できる」
蓮はもはや開き直ったように答える。
「ほんと、赤ちゃんみたい」
そう笑うと、蓮は「うるさい」とやりずらそうに顔を逸らした。
「もうあと一ヶ月もないうちに日本を発つから、今は無責任なことは言えない。だけどもし帰って来た時も哀の気持ちが変わっていなかったら、その時は……」
そこまで言うと、蓮はそっぽを向いて口を閉ざす。
「その時は?」私は解答を急かすように問う。
「ちゃんと言うから」
蓮は耳を真っ赤にしながらぶっきらぼうに言った。
普段感情を見せない彼だからこそ新鮮に感じ、私まで顔が赤くなった。
「うん。待ってるから」
心が暖かい温度で満たされる。心地良くて今にも眠ってしまいそうに安心できる空気に感じられた。
こんな居心地の良い環境を知ってしまったら、離れたくなくなるではないか。
「ねぇ、蓮」
そう尋ねると、蓮は「……何?」と不愛想に答える。
「一回だけでいいからさ、ぎゅって、してくれない?」
私は思い切って尋ねる。恥ずかしくて顔が上げられない。
この先一年は蓮のいない状態が続くというのに、彼の隣にいる居心地の良さを知ってしまった今、せめて出発までの時間は一緒にいたい、と願ってしまった。
反応がなく、恐る恐る顔を上げると、蓮は目を丸くして私を見ていた。
しかし、その目は次第に険しいものに変わる。
「無防備すぎ。やっぱり不安だ」
「な、何で?」私は肩を縮めて尋ねる。
「そんなこと言われて、一回で済むと思ってるの?」
そう言われると同時に、身体に暖かい感覚に包まれる。柔軟剤の清潔な香りが鼻孔を擽った。
蓮に抱きしめられていると判断するのにしばらく時間がかかった。
「俺、前にも言っただろ。男の部屋に何も考えないで入る方が、無神経って」
蓮は真面目な顔で答える。私は顔面が爆発しそうになった。
「れ……蓮だからだよ…………」
私は声を強めて反論する。
「修学旅行だって、夏祭りだって……全部全部、蓮だから良いと思ったからだよ!……ッン!!」
言い終わる前に口が塞がれる。唇の柔らかい感触と温かい唾液が混じり合い、身体の力が抜けた。
熱い息が漏れる。前回彼にされたキスよりも優しく、柔らかく、丁寧に唇が噛まれる。
蓮の舌が口の中に滑り込む。どう答えたらいいのかわからずに、彼にリードされるがままだった。
互いが互いを求めることで思考力が奪われ、蓮だけしか見えなくなっていた。
脳が溶けそうだ。頭を撫でる手が大きい。
以前抱いた恐怖は全く感じず、むしろ今は安心感を抱いていた。
好きな人とキスをする、という行為がこんなにも愛しい行為だとは思わなかった。
ちゅっと艶やかな音が響き、小さく声が漏れる。
しばらくすると顔が離された。
至近距離にある蓮の顔が普段以上に整って見えた。
その顔は今まで見たこともないほどに色っぽく感じ、再び胸が鳴る。
「…………これも実力行使?」
照れ隠しから無愛想に尋ねる。
「そうかも」
蓮は悪びれることもなく答えると、今度は私の首元に唇を這わせる。
「ちょっ…………蓮!」
「何されてもいいって言ったのは哀だよ」
「何されても、とは言ってない……」
「もう遅い」
蓮は悪びれることもなく私の肌に口をつける。感じたことのないこそばゆさに反射的に身体がびくりと反応した。
「じゃ、じゃあせめて…………電気だけは消してください」
そう言うと、蓮はキョトンとした顔になる。
そこまで考えていなかった、と訴えるような表情に、私は身体の中が熱くなる。
「ほんとにもう、知らないから」
そう言うと蓮は、立ち上がって電気を消し、部屋の鍵をかけた。
***
毎日変わらぬ日々を過ごしていた。
地盤は安定し、大きな天災対策も施されている。その為、少しの変化では動じることがなくなっていた。
だがやはり時間が経つにつれて変化は起こる。
衣替えが始まり、紺色のブレザーを身につけ始めた。あれだけ蒸し暑く感じていた朝の運動後も今では中々汗も出なくなっていた。
流れるように日々が過ぎていく。
そして気付けば、十二月になっていた。
***
飛行機の到着を知らせる放送や、金属探知機の反応する音が響く。荷物を運ぶ車輪がゴロゴロと鳴り、あちこちから多言語で話す声が聞こえる。
荷物計量器やモニター、航空券印刷機、荷物を機内に送るベルトコンベアー、広いカウンターがあり、キャリーケースを所持した乗客もたくさん見られる。
ガラス張りの窓の外には、飛行機がずらりと並び、搭乗している人たちの様子も確認できた。
普段利用する公共交通機関とはまた違う大人な空気に、いよいよこの時期が来てしまったのかと内心寂しくなる。
「またこの空港に来ることになるとはな」
祐介は周囲を見回しながら言う。その手には館内マップが持たれていた。
「空港内ってたくさんお店あるんだね~」
美子はクレープをもぐもぐ食べながら呟く。
「何か、ここ来るだけで旅行した気分になれるよね」
渚はタピオカジュースを啜りながら言う。
「みんな、満喫しちゃってるし……」
私は苦笑する。
今日は、蓮の旅立ちを見送るという目的で訪れているのだ。
だが、見送られる当の本人は特に気にすることなく目を細める。
「でも、みんならしいから逆に安心して機内で眠れる」
「安定だね……」私は再び笑う。
「蓮、お土産ちゃんと買ってきてね!楽しみにしてるんだから」
渚は厳しい顔で指差す。
「ラム肉、北海道とどっちが美味しいか聞かせろよ」
祐介は軽い調子で揶揄う。
「美子、パイが食べたいな~」
美子は指を口に添えながら言う。
「うん。たくさん買ってくるから。それじゃ」
蓮は軽く手を上げると、キャリーバックを引いて颯爽と搭乗口まで向かう。
私たちは彼の背中を茫然と見つめる。
「……まだだぞ。あいつが見えなくなるまで」
祐介は小さな声で呟く。
「わかってる、わかってるよ……だからあたしも頑張って、いつも通り振舞ってたじゃん…………」
渚は顔を歪めて呟く。
だが、次第にその顔からは涙がボロボロと溢れた。
「やっぱダメだ~耐えらんない。だって、ずっと一緒にいたんだからさ~寂しくないわけないじゃん」
渚はそのまま延々泣き始める。周囲の人も驚いた顔で彼女を一瞥して通り去る。
祐介はそんな彼女を一瞥すると、頭を撫でて顔を下に向けさせる。
「こんなところで泣くのはやめろ。特におまえはさ」
そう言うと祐介は、彼女を隠すように頭を引き寄せると、私に目で合図する。
美子も唇を噛んで俯いている。
そんな彼女たちにつられて、私も目にじわりと涙が浮かぶがぐっと耐える。
一番寂しいはずである彼が決して振り返ろうとしないのだから、私たちが崩れるわけにはいかないんだ。
感情が溢れ出さない為にも上を向く。するとガラス張りの大きな壁から雲ひとつない空が目に飛び込んだ。
今日は冬晴れだ。真っ青に澄み切った空が太陽の日で輝き、冬の冷気を感じさせない。
そんな空を今から蓮は旅するのか、と考えると少し羨ましくも感じられる。
寂しいのは当たり前だ。だが、今はそれ以上に蓮を応援していた。
あんなに変化を嫌っていたにも関わらず、蓮の姿がどれだけ成長したのかを一年後にこの場所で確認することが楽しみだったのだ。
「哀?」
祐介の不安気な声が届く。
私は大きく息を吸うと、「何でもないよ」と彼に笑顔を向けた。
Day9 完