昨晩の大雨から氾濫した川は轟々音を鳴らす。濁りのある水が鉄柱を打ち、普段は下りられる高架下をも水で溢れている。川はこの街一番の広さであり、現在はすっかり雨も止んでいることから幸い人々の生活が脅かされるほどの被害にまでは及びそうもない。
そんな川を南雲 莉世(ナグモ リセ)は、大きくて広い川だなぁ、とぼんやり眺めていた。
時刻は、午後五時四十五分。
橋を横断する人々の顔は心なし疲弊し、足早に家路に向かう。帽子を被った小学生たちは、ランドセルにつけられた鈴をリンリン鳴らしながら元気良く駆けていく。同じ小学生でありながらも、元気だなと、莉世は目を細めた。
虹ノ宮市は、県内で上位に入る都会であるものの、莉世のいるこの街、藍河区は、都心から少し離れた郊外に位置する。目前を流れる大きな川や周囲を囲む木々で自然は多いものの、広い交差点上は車が絶えず走り、歩く人も目に入ることからほどほどに活気があった。広大な自然に心も寛大になるのか、治安も良いと言われている。
来年からここの住民か、と莉世は無意識に頬が緩む。
パパは、もうすぐ来るかな。
莉世は、橋の柵から身体を起こす。赤い夕日を眺めながら歩いていると、突如、それは音も無く目下をよぎった。莉世は、それに引かれるように顔を下げる。
鮮やかな黄味の光を放ち、チカチカと点滅する。ふわりと舞えば、側の木の葉に留まった。
「すごい……! ホタルだ!」
莉世は、無邪気に目を輝かせながら木に顔を寄せる。
人気を察知したホタルは、音も無く木の葉から離れ、ふわふわと光を放ちながらどこかへ向かう。
莉世は、嬉々としてホタルの後を追った。
辿り着いた先は小川だった。先ほどの大きな川とは対照的に、川底まで見える澄んだ水が静かに流れる。そんな小川を無数の蛍光色が彩る。
「すごい、すごい!」
莉世は、宙で踊る光に負けないほど顔をキラキラさせる。初めての天然ホタルに高揚しているようだ。
日もすっかり低く沈み、辺りは暗くなりつつある。それに比例し、ホタルの光は輝きを増した。
温かい光に、どこか実家のような安心感を覚えた莉世は、しばらくその場で自然を堪能した。
「お父様を迎えに来たのかな」
唐突に、凛とした声が響く。
振り返ると、大きな鳥居が目に飛び込む。穢れのない朱塗りから、結界の張られたかのような妖しいオーラを放つ。
その鳥居の下に、一人の青年が立っていた。
細身の身体に和服を着用している。耳にかかるほどの長さの白髪は艷やかで、切れ長の目元は柔和に細めている。外見は十代後半のように感じられるものの、彼の端麗な顔立ちや、落ち着いた佇まいから年相応には感じられない。
どこか異質な空気の漂う青年に、莉世は首を傾げる。
「なんで、わかったの?」
素朴に尋ねる彼女に、青年は柔和に目を細める。
「そんな未来が視えたのです」
青年は意味深にそう言うと、踵を返して鳥居の中へと歩く。
「待って!」
反射的に莉世は叫ぶも、いつの間にか青年は姿を消した。
ジジジッと側の草原から虫の音が響く。静かに流れる川の音が聴こえるほどに周囲は静まり返っていた。
日は完全に落ち、漂うホタルの光が暗闇を照らす。
だが莉世は、すでにホタルから意識が離れていた。
「不思議な人〜……」
呑気に頭を掻いていると、一人の男性が鳥居の奥から姿を表す。見慣れた顔に、莉世の顔は明るくなる。
「パパ!」
「莉世? 何やってるんだ」
莉世の父親らしき人物は、彼女を見るなり目を丸くする。驚く父親をよそに莉世は彼に、てこてこ近寄る。
「暗いのに危ないじゃないか。おばあちゃんの家にいるんじゃなかったのか」
「なんかね、パパがここにいる気がしたから」
その言葉に父親は顔を強張らせる。しかし、娘の屈託のない笑みに、父親は小さく頭を振って観念した。
「さぁ、家に帰ろう」
「うん!」
父親は、莉世の手を引いて家路についた。
『夢現の恋蛍』