時刻は、午後六時三十五分。
春明は、日の沈んだ帰宅路を歩きながら思考する。妙に嫌な予感がした。
せっかくの連休であるにも関わらず、相変わらず作業漬けである為、大事な娘と時間を過ごすことができていない。
春明は、娘に自分の仕事を伝えていなかった。少しでも不安を与えたくなかった。怪異という存在は夢の中だけでしかいない、と思わせたかったのだ。
親バカであることは承知の上だ。もう自分には、娘しかいないのだから。
――――親に放っておかれる立場にある子どもは、案外辛いものなんですよ
水月の言いたいことはわかっている。彼の立場を考えれば、尚更言葉には重みを増した。
だが、作業を早く行えば、その分娘が悪夢を見る日も減り、実際物の怪に関わる可能性も減る。
今は多少無理をしようとも、作業を一番優先すべきなのは確実だ。浄化のできる人間は、この街にもう自分しかいないのだから。
だが、この胸騒ぎは何だろうか。恐らく先日、娘が妻の墓地へ出向いた辺りから、内心娘に怯えているのだろう。いつか自分の視ている夢は夢じゃない、と気付かれてしまうのではないのかと。
リンッとどこかから風鈴の鳴る音が響く。その音に引かれるように顔を上げると、目前に見慣れた鳥居が目に飛び込んだ。
その鳥居の下に、愛しい愛娘が立っていた。
「パパ」娘は、春明を真っ直ぐ見ながら言う。
「な、何やってるんだ。こんなところで……」
春明は、彼女を見るなり目を丸くする。
驚く春明をよそに、娘は凛と背筋を伸ばして近寄る。
「暗いのに危ないじゃないか。家から出てはいけないと言ったはずだろう」
「ここにパパがいる未来が視えたの」
その言葉に、春明は顔を強張らせる。
娘は、春明から目を逸らさないまま、まっすぐ問う。
「ねぇ、パパ……もう隠さないで……」
「な、何のことだい……?」
春明は、娘を見ながら細い声で問う。
「パパの仕事って、物の怪を浄化することなの?」
直球で問われたその言葉に、穢れは感じられなかった。娘は純粋に、真実を追い求めている。
いつの間にか成長した娘の姿に、春明は圧倒された。
娘を危険な目に遭わせたくない一心から行動してきたが、それが裏目に出てしまったのかもしれない。
もう、隠すことはできない。
「…………何を言っているんだ。怪異なんてものは、存在しない」
感情の感じられない言葉が口から出る。自分でも驚くほどに冷静で、低い声だった。
恐がらせてしまったのか、娘はしばらく口を開けたまま静止するが、「そ、そっか……」と目を逸らした。
もう、あと少しなんだ。
もう少しで、全ての浄化が完了し、元の平穏な日常に戻れる。娘も、悪夢に怯えることもなくなる。
自分も、この先怪異と関わらないと誓おう。
だからどうか。もう少しだけ夢を見ていてほしい。
二人の間には、張り詰めた空気が漂う。自分の作り出した空間だとは理解していた。
娘は何も言わず、何も反論しない。恐らくこうなる未来を視ていたのだろう。
「…………さぁ、家に帰ろう」
春明は、娘に手を差し伸べる。娘はしばし目をぱちぱちさせるも、おずおずと春明の手を取った。
「パパ……」
娘は不安気に呟く。「もう、危険なことをしないで」
「ど、どうしたんだ?」
「パパが死んじゃうのは嫌だよ」
春明は、強い衝撃を受けた感覚になった。
だが、これ以上追求する勇気はさすがに出ない。
「……そうだな。心配かけて悪い。頑張って仕事早く終わらせるからな……」
平然を装う為に手に力が入る。手のひらはしっとり汗を掻いていた。
水月があれほど自分に「協力者」が必要だと言っていた意味も理解した。だが、自分には両親も妻も仲間もいない。もう娘しかいない。だからこそ、娘を危険な目に遭わせるつもりは毛頭ない。
恐らく自分は、近々死ぬのだろう。娘が口にしたことだけで充分な根拠になった。
気がかりなのは、自分が死んだ後、物の怪を浄化するものがいなくなること。あいつらは「鬼神」になったことで、もう浄化する力は所持していない。
物の怪から娘を守れる者がいなくなる。
「パパ?」
娘の不安気な声が聞こえる。
春明は、力なく笑い「何でもないよ」と娘の頭を撫でた。
☆☆☆
ゴールデンウィークが明け、学校も再開した。
莉世は、学校へ向かいながら思案する。
以前、白髪の青年の「物の怪を浄化できる人物がこの街に一人しかいない」と言っていたその人物こそが、莉世の父親だった。先日、北条に言われるまで、莉世は全く知らなかったのだ。
物の怪を浄化できる人物がいなかったからこそ、父親はこの街に来ることになった。それならばこの街に転居してきた理由も納得する。
正直、今まで父親がどんな仕事をしているのか、莉世は知らなかった。まだ小学生だった莉世には、仕事というものが何なのかどんな種類のものがあるのかなんてことまで理解していなかったし、興味もなかった。
基本的にスーツで出勤する姿を見ていたことから、昼間は会社員、朝や夜に物の怪を浄化する「陰陽師」の仕事を行う。父親しか浄化できるものがいないから、父親は寝る間も惜しんで時間を割いた。
父の行動は、全て自分を守るためだとは納得できる。
でも、莉世は内心覚悟していた。父親に話しても、きっと許してくれない。だけどもう、父親に無理はさせたくない。自分たちにも、物の怪を浄化する力があるのだから。
実際、悪夢を見る頻度も減少していることから、この街から物の怪も減少していると実感している。早く物の怪を浄化すれば、その分、父親も楽になれる。
あんなに見たくないと思っていた悪夢。今では早く夢を見ないかな、とまで考えるようになった。
藍河稲荷神社の関係者のみ入ることのできる境内。
いつものように、一人ひとり北条の鬼神と対峙し、特訓を行う。
「おい北条! 何か今日の鬼神、荒くねぇか?」
東は困惑気に叫ぶ。
「オイオイオイ! どこ見てンだガキャァ!」
東の後ろにいる炎を纏った鬼神は、叫びながら東に襲い掛かる。東は、「うわっ、ちょ、タンマタンマ!」と炎の鬼神を躱す。
そんな様子を離れた場から莉世たちは見ている。
「そうだな。今日は鬼神の中でも一番問題児である『乱丸』だからな」北条は冷静に答える。
「一番の問題児って、ぶっ飛びすぎだろ!」
「次の特訓は過酷になると、以前忠告したはずだ」
恐らく、ゴールデンウィーク中に訪れた川での出来事を根に持っているとは感じられた。北条も中々容赦がない。
今回、東の特訓の協力者は、炎を操る能力を所持する『乱丸』と呼ばれる鬼神だった。燃えるような朱の長髪を束ね、額から左目の下にかけて「午」との大胆な刺青が入る。目も耳も、性格も尖っていた。ひと目で好戦的な血気盛んな鬼神だとは感じられた。
「いきなり難易度上がり過ぎだろ。俺は鬼神が見えねぇって忘れたんか?」
「ケガさせるなとは、一応言っている」
「俺のこと本気で殺しにかかっている気がすんだけど」
「乱丸は基本的に言葉が通じない」
「鬼北条!」
東は叫ぶ。莉世は小さく「北条くん、スパルタだ……」と呟いた。
「でも鬼神の攻撃、全部躱してない……?」西久保は、僅かに困惑しながら言う。
「そ、それは思った」
東は文句を言いながらも、乱丸の攻撃を避けていた。
本人は避けることに必死で気付いていないようだが、全く見えていないはずなのに、乱丸を開放して十分間、かすり傷すら追っていない。
その凄さに、莉世たち三人は息を呑む。
「オイオイ蒼ィ! このガキ、本当に見えてねェのかァ?」
乱丸は柄の悪い声で問う。
「あぁ。全く見えていないはずだ」
「あァ何だよ気持ち悪ィなァ。一発くらい殺っても問題ねェだろ」
「一発殺ったら終わりだよ」
莉世は慌てる。以前北条が、松風以外の鬼神は扱い辛いと言っていた理由も何となく理解できた。
「あいつ、何気凄いじゃん……ただの無神経な馬鹿だと思っていたのに……」
「だよね。東くんがいると、恐いもの知らずになれるっていうか」
「あいつの妙な勘は、今後優位になるはずだ」
北条は思案しながら呟いた。
「日向っちに教えてもらったんだけどさ、この術書、本当にすごいものらしいね」
西久保は、術書を掲げて誇らしげに言う。「それに選ばれた人しか使えないらしい。あたし、結構トクベツなんだ」
「確か昔、活躍した陰陽師が書いたんだっけ」
以前、北条の言った言葉を思い出す。
「うんうん。この街の人たちがたくさん亡くなる未来を視た陰陽師が、力を継承する為に書き残したって。えっと、名前聞いたんだけど、忘れちゃった」
西久保はてへっと舌を出すと、空を見上げる。
「基本的にヒーロー作品って最後に勝つイメージだけど、現実だとそううまくいかないよね。もう悪夢を繰り返さない為にも力を後世に残すって、すごいよね。ま、この話が本当かどうかわからないんだけど」
「そんな凄いものが西久保さん家にあったんだね」
「うん。もしかして、うちの家系の人なのかな」
西久保は嬉々として笑う。
「ま、でもこの本の扱い方もわかってきたし、テストが終わったらバンバン活動していこうね」
「うん、もちろんだよ」
莉世は力強く答えていた。
北条は、二人の会話に静かに耳を傾けていた。
☆☆☆