「おかえり」
帰宅すると、祖母は普段通りに出迎える。夕食の準備をしているようで、キッチンから煮物のようなダシの香りが届く。
「おばあちゃん」
「おや、今日はパパだけでなく、お客さんもいらっしゃるようだね」
そう言って祖母は、莉世の後ろにいる東に視線を向ける。
「お、お~す。これ、大したものじゃないっすけど……」
東は、やり辛そうに駄菓子の入った袋を掲げる。
「少し莉世たちと話すから、夕食はそれからで」
父親は、上着を脱ぎながら言う。
「はいよ。汚い家だけど、のんびりしていってね」
祖母は柔和に笑う。東はかしこまった態度でお辞儀した。祖母の振る舞いから、先ほどまでの緊迫した空気が和らいだ。
三人は、二階へと上がる。
二階の部屋の中央、テーブルに座布団がいくつか、部屋の隅に段ボール箱の詰まれた部屋に入る。まさか友人を自宅に招くとは思わず、いまだ片付いていない引っ越しの荷物が恥ずかしく感じた。
「あ、東くん、どうぞ」そう言って莉世は、座布団を床に敷く。
「お、おう、ども……」東は、おずおず席につく。莉世も東の隣に腰を下ろした。
父親は、二人の対面に腰を下ろす。
気まずい沈黙が流れた。
「何から、話そうか……」
父親は顎に手を当てて暫し悩むと、居住まいを正す。
「まず、俺が今まで何をしていたかは、聞いているか?」
「簡単にしかわからないけど……物の怪を浄化することができるのが、パパしかいない、とは聞いているよ」
莉世は答える。東も頷く。
「そうだな。この街に浄化のできるものは、俺しかいなかった。この街に引っ越してきたのも、そのためだ」
父親は頷きながら答える。「でだ。なぜ俺がこの街に来ることになったと思う?」
「え」
莉世はキョトンとする。「物の怪を浄化することができるのが、パパしかいないからでは?」
「それだけじゃない。東京からわざわざ離れた町を救うほど、俺もお人よしではない」父親は頑なに応える。
「何か……環を浄化しないといけない理由があったってことだよな……?」東は問う。父親は軽く頷く。
「環に、パパは関わりがあったの?」
「……そうだな。むしろ俺にとったら、関わりがある、だなんて軽い存在ではないかな……」
父親は、おもむろに机上で手を組む。感情を耐えているのか、その手は僅かに震えていた。
「パパ……」
「莉世…………」
父親は、顔を強張らせて目を瞑る。「おまえの母親は、あの環に殺されたんだ」
絶句した。頭が真っ白になった。
それと同時に、脳内を駆け巡るように映像が流れた。
思い出したくもない、あの「悪夢」だった――――
☆☆☆
初めて莉世が「未来」を視た日。
あの日の寝覚めは、最悪だった。
「夢か……」
莉世は悪夢を見た。母親と公園に訪れるが、崩壊した建物に下敷きになって母親が死ぬ夢だった。
当時の莉世は小学六年生。そもそも公園なんて、ここ数年行っていない。夢であるとはわかりつつも、夢の中の母親の悲惨な末路が脳内から離れなかった。
「莉世、今日は公園に行こうか」
リビングまで来た莉世に、母親はそう声をかけた。
「な、何で?」
莉世は軽く動揺しながら問う。母親は過剰な彼女の反応に軽く首を傾げながらも目を細めて笑う。
「あの公園、テラスがあるでしょ。今日はいい天気だから、ピクニックみたいにお弁当でも食べよう」
母親は、キッチンで料理をしていた。おにぎりにウインナー、たまごやき、と既にお弁当の準備を始めている。
この日は土曜日だった。父親は休日出勤でおらず、しばらく遠出もできていないことから母親の計らいだったのだろう。
だが、莉世はあまり乗り気でなかった。
「今日、恐い夢を見たの……」
「怖い夢?」
母親は、玉ねぎをトントン刻んでいた手を止めて莉世に振り向く。
「その場所が公園だったから、ちょっと怖い……」
莉世は、正直に答える。母親はしばらく静止するが、やがて包丁を置いて彼女の元に寄る。
「最近、外に遊びにいけてないからね。暖か~い太陽の光を浴びたら、夢のことなんて忘れてしまうよ」
「でも」
「大丈夫。あの公園の近くには交番があるし、何かあってもママが莉世を守るから」
母親は力強く答える。撫でられた頭から彼女の体温を感じて心が冷静になった。それに、楽しそうにお弁当を作る母親を止めることはできない。
ママって、やっぱりママだなぁ。
莉世は、外出の準備をした。
懐かしい公園。昔遊んだ遊具も変わらずに設置されている。ところどころ錆が見られ、年季を感じた。
細道に位置し、車もほぼ通らない。日差しは温かく、至って平穏な日常だった。
夢のようなことが起こる気配は微塵も感じられず、莉世は内心安堵する。したはずだった。
それは突然、起こった。
「莉世! 危ない!」
その声と共に、公園の隣の建物が大きく物音を立てて倒れた。公園内全体が、崩壊した建物の下敷きになる。遊具も衝撃で崩壊した。地面が大きく揺れるほどの振動が起こる。アクション映画のような惨劇だった。
だが、莉世は無事だった。莉世の周囲には、結界のような何かが張り巡らされていたのだ。
「ママ……?」
莉世は、自分に覆いかぶさる形の母親を見る。怪我はないが、全く反応しない。
莉世は、全く理解が追い付いていなかった。追いつくわけがなかった。数秒前まで母親と玉子焼きおいしいね、なんてお弁当を食べていたはずなのだから。
「ママ……どうしたのママ……?」
莉世は母親の頬をぺちぺち叩く。だが、今朝頭を撫でてくれた時の体温は感じられず、人間とは思えないほどの冷たさを感じた。
周囲は騒がしい。衝撃音が止むと同時に住民たちが何ごとかと顔をのぞかせた。
だが、そんな騒音も莉世の耳には入らない。
「夢、夢なの……? ママ、返事してよ……!」
何度も母親を揺する。冷たい。どんどん体温が感じられなくなることに莉世の顔が凍りつく。
「キミ。危ないから離れようか」
警察の人が声をかける。だが莉世には届いていない。
「何でママが動かないの? 嫌だ……嫌だよ……!」
莉世は警察の手を振り払って突っ伏する。母親を起こすようにどんどん強く胸を叩く。だが、何の反応も返ってこない。
莉世はその場で泣き崩れる。それからの出来事は莉世は覚えていなかった。
まさか、正夢になるとは思わなかった。
悪夢が未来だとは考えもしていなかった。
もしもあの時、公園に行くことを止めれば、自分が必死に引き止めていたら、作りたてのお弁当を見ながら少しだけ寂しそうな母親の顔を見るだけで済んだのかもしれない。今では、母親の手料理さえ食べることが叶わなくなった。
自分は、止められたはずなのに。
この件が起こったのは、昨年夏。莉世たちが初めて虹ノ宮に訪れて以降のできごとだ。
それ以降、莉世は悪夢を見る頻度が多くなった。責任感を感じていたからこそ、何故止めてくれなかったんだ、と母親に怒られているかのように感じていた。
その結果、莉世は悪夢に怯える日々になった。
☆☆☆