4時間目:保健体育8



藍河稲荷神社境内、封印の社へ辿り着く。

社内は、中央の広い部屋に呪石が収容され、奥の部屋にはソファやキッチン、ベッドなどが備わっている。環を見張る為に、この社内だけで生活できる設備が整えられていた。主に鬼神たちが人型になった時に使われていたようだ。

戸を開くと、ベッド上に松風、傍の椅子に日向と操、八角が座っていた。

「あれ、莉世ちゃん。どうしたんだよ、こんな夜中に」

松風は、林檎を持ち上げた手を止めて驚く。口調は軽いが、翼や頭には包帯が巻かれ、顔や腕のあちこちにガーゼが当てられていた。

「僕が連れてきた」北条は、狐面を外しながら答える。

「ははっ、深夜にか? 蒼は大胆だな~」

松風は、カラッと笑いながら林檎を宙に投げるが、すぐに「いてっ」と顔を歪めた。

「松風さん。大丈夫ですか……?」

「平気平気。ほら、翼もぴんぴんしているだろ」

そう言って松風は、包帯の巻かれた翼を動かそうとするが、日向に手で制される。

「無駄に動かすな」

「いてっ。本当、日向は厳しいな~」

「さっきまでべそ掻いてたくせに、カッコつけるんじゃないっての」八角は口を尖らせながら言う。

「べそは掻いてないっつの!」

彼の傷の多さからも、大変だったとは伝わる。

それだけに、普段の人間らしいやりとりに安堵した。

「本当……よかった……」莉世は手で口を覆う。

そんな彼女に松風は、やりずらそうに頭を掻く。

「悪いね、情けない姿見せちゃって……。でも、もう本当に平気だから」

「八角がつきっきりでおまえの傍にいたからだな」

日向は頷く。

「べっ別に心配だったわけじゃないし! ただ暇だっただけだもん」八角は頬を紅潮させながら反論する。

「ははっ、そうなのか。手間かけたな八角」

松風は、愉快そうに八角の頭をポンポン撫でる。八角はプルプル身体を震わせながら下を向いた。

「彼女をここに連れてきたのは、環から守る為か?」

日向は、北条に問う。北条は頷く。

「環の狙いは、燐音の生まれ変わりである莉世を殺すこと……だからうちで匿った方が良い」

「英断だな。ここなら我々が彼女を守ることができる」

日向は、納得したように頷く。

そこで莉世は、重要な点を思い出した。

「あの……何で私は、環に狙われているんですか?」

自分は燐音の生まれ変わりだから狙われる、という意味はわかる。だが、何故狙われているのか理解できていなかった。夢の中で出てきた燐音はごく普通の少女であり、環に狙われる厄介な存在にも思えない。

北条や鬼神は、黙り込む。突然の沈黙に、莉世は冷や汗を掻く。

「……その時がきたら、必ず話す」

日向は言う。「今は、ゆっくり休んでくれ」

「寝室を案内する」

そう言うと、北条は颯爽と戸へと歩く。莉世は鬼神たちに軽く頭を下げると、北条に続いた。

案内された部屋は、松風たちのいた部屋の隣だった。

襖が開けられると、青い畳の香りに木造建築の新鮮な香りがふわりと舞う。畳の上に、すでに布団が敷かれていた。

「ここなら鬼神もそばにいる。普通に生活する分には困らないだろう」

「うん……ありがとう」

莉世はかしこまった態度で頷く。北条は優しい眼差しで莉世の頭を撫でた。

莉世は、頬を赤らめながら北条を窺う。

「また、紫翠くんが出て来てない?」

「そうかもな」

北条は、やりずらそうにそっぽを向いた。

◇◇◇



時刻は、午後七時二十分。

この日は雨がしとしとと降り注ぎ、じっとりした空気が立ち込めていた。天候で気分は左右されやすいものの、西久保の目には意志がこもる。

西久保は、普段よりも早くに学校に向かっていた。

目的の人物は、普段クラス内で一番早くに登校していることから、三十分も早くに登校すれば二人になれるはずだと考えていたのだった。

今日は雨で、さらに普段よりも三十分以上も早くに登校していることから、学校に辿り着いても人がほとんど確認できない。本当に今日も学校があるのか疑うほどの暗さだった。

西久保は靴を履き替えると、緊張した面持ちでクラスまで向かう。

教室扉の窓から、恐る恐る中を窺う。窓側の一番後ろの席に、今一番見たかった人物の姿があった。普段と変わらない端麗な顔立ち、実家が神社だからか、神聖な空気を纏っている。

西久保は、鼓動が速くなる。人と話すことは得意な方だが、明らかに緊張しているとは自分でもわかる。

それほど、北条に対する強い想いを感じた。

北条が莉世のことを想っているとは、西久保も薄々気づいている。だけどそれでも諦めがつかない。すでにわかっている結果とはいえ、伝えないまま終えるのは癪だった。

大きく息を吸い、扉を開ける。北条は、西久保に目を向ける。

「お、おはよう」

「おはよう」

北条は軽く会釈をしながら挨拶を返す。そんな何気ない行動ひとつでも舞い上がる自分が恥ずかしい。

「今日は早いんだな」

「え、えと、北条と話がしたくて……」

「僕と?」

北条はキョトンとする。西久保は、唇を結ぶ。

鼓動が耳の裏まで響く感覚だった。

「いきなりごめんね……でも、これだけは言っておきたいなって……」

そう前置きすると、手に力を込めた。北条は、黙ったまま西久保を見る。

「私…………北条のことが好きなの…………」

西久保は思い切って打ち明ける。北条は、僅かに目を見開いた。西久保は、顔が上げられなかった。

言ってしまった。莉世より早く伝えておきたい一心だったが、口にした瞬間全身から汗が吹き出す勢いだ。

北条は、しばらく面食らった顔をしていたが、目尻を下げて「ありがとう」と言った。

「でも…………ごめん……」

北条は、すぐに言葉を続けた。西久保は、僅かに目を落とす。わかっていた結果だが、やはり胸の中からさぁっと血の気が引いた。

「ううん。こっちこそいきなりごめんね……どうしても言っておきたかったなって……」

泣きそうだ。今、北条の顔を見ればきっと堪えない。

西久保は、下を向いたまま口を開く。

「……ねぇ、聞いても良い?」

「何だ?」

「北条は、莉世ちゃんのことが好きなの?」

北条はしばらく黙り込む。しかし、顔を上げるとまっすぐと西久保を見る。

「あぁ、そうだ。生まれ変わっても、僕は彼女の為に生きると決めている」

西久保は圧倒された。こんなにも力強く、こんなにも胸を掴まれる言葉を堂々と口にする。ロマンチックで夢現な言葉であるが、西久保は胸が一杯になった。

こんなの、どうしたって敵わないではないか。

「そ、そうなんだね……すごいね……」

そんな言葉しか出てこない。それだけ莉世に動かされるものがあるんだ。

羨ましい。ずるい。悔しい。

どうして私じゃないの。

どうして莉世なの。

あたしの方が先に好きだったのに。

北条にこんなにも愛されている莉世が、どうしようもなく妬ましくなった。

「ごめんね……ありがとう……」

だめだ、これ以上ここにいたら情けない姿を見せる。

西久保は教室を逃げるように去った。気を遣ったのか、北条は追う気配を見せない。

登校する生徒がちらほら見える中、西久保は傘も差さずに校門を走り抜けた。

◇◇◇



西久保は学校を抜け出した。遠くで授業開始のベルが鳴るが、今はそんなことどうでもよかった。一人になりたかった。

雨も降り注ぐ中、西久保は傘も差さないまま走る。

あてもなく足を動かしていたが、激しい水音が届き、気づけば神社傍の川に辿り着く。川の水の流れる音が、西久保の体内に入り混じった感情を洗い流すかのようだった。

氾濫した川は轟々音を鳴らす。濁りのある水が鉄柱を打ち、普段は下りられる高架下をも水で溢れている。普段と違う顔を見せる川に、西久保は少しだけ恐怖を感じた。

「本当……最低だよね……」

莉世のことは好きだ。だけど、それ以上に嫉妬の感情が上回っている。

こんなに醜い自分が嫌いだ。

恥ずかしくて、誰の顔を見ることもできない。

こんなことなら、もういっそ。

いなくなってしまった方が良い。

西久保は、ふと川にかかっている橋に目をやる。広い川であるだけ、十分に高さもあった。

川も氾濫している。絶好のタイミングだ。

西久保は、何かに引かれるように橋へ向かう。

これ以上、ここにいてはいけない。

だからいなくなった方が良い。

――――お主がいなくなる必要はない

はっと正気に戻る。橋へ向かっていた足も自然と止まった。

「誰……?」

周囲を見回すと、高架下にきれいな和服を着用した女性がいた。こちらを見ながら柔和に笑っている。

絢爛豪華な装飾の施された和服に黒漆の髪、洗練された白い肌。目を奪われるほどにきれいな女性だった。

「お主の気持ちは良くわかるぞ。自分の方が好きなのに、相手には敵わない相手がいる。それでも羨ましいと思ってしまうのは仕方ない。だが、お主がいなくなる必要はない」

「な、何で……」

「だって――相手がいなくなれば良い話だからじゃ」

途端、女性から九本の尻尾が生え、同時に西久保は胸が圧迫される。あまりにも重圧に耐えられずに、その場に膝をつく。

目前にいた女性は、いつの間にか消えていた。

「何……何これ……!」

息ができない。身体が、何かに巻き付かれているかのような息苦しさを感じる。

「お主の野望、妾が叶えてやる」

西久保の耳元で女性が囁く。

先ほどまで目の前にいた女性が、「西久保和奏」という器に入り込もうとしていた。

「嫌だ……!」

西久保は、抵抗するようにうずくまる。だが、雨のように隙間をぬって環は中に染み入った。虚しいものだった。

震えは次第に収まり、数秒後、無言で立ち上がる。

その顔つきは、先ほどまでの西久保とは別人のように凛としている。

「ふう……。少々キツイが、まぁ良いだろう」

(嫌だ……なにこれ、身体が勝手に動く……!)

西久保の身体に、九尾の狐が憑依した。意識はあるものの、身体や口が勝手に動いていた。

「この身体なら、あ奴を殺すのも容易いわ」

西久保に憑いた女性、環は、そう呟くと、雨の中おもむろに歩き始めた。

【4時間目:保健体育】 完