時刻は、午後十一時四十五分。
莉世は、自宅の布団に横になっていた。
父親の使用していた衣服や布団はいまだ片付けられていない。父親がそばで見守っている安心感から、あえてこのままにしていた。今では少し回復してきたとはいえ、それでも孤独であるには違いなかった。
コンコンと窓がノックされる。
顔を向けると、ベランダに狐面の少年、北条の姿があった。
莉世は、窓を開けてベランダに出る。北条も狐面を横にずらして顔を見せた。
「北条くん……! どうしたの?」
「少し、莉世に見せたいものがある」
「こんな夜中に?」
「あぁ。今でないと、見せられないものなんだ」
「ほ、補導されない?」
「今更、それを言うのか」
北条はふっと表情を崩す。「そもそも空を飛ぶ人間を、どうやって補導するんだ」
スッと自然に手が差し出される。エスコートされている感覚になり、莉世は気恥ずかしくなる。
莉世がおずおず手を取ると、北条は優しい目つきで莉世を抱え、空を飛んだ。
☆☆☆
連れて来られた場所は、藍河稲荷神社裏にある山の頂だった。
「ここ……」
思わず身構える。入学式の時に神隠しに訪れた場所だった。
「心配しなくても、物の怪はいない。そのことは、莉世も理解しているだろう」
ごもっとも。
神隠しの時は辿り着けなかったが、山頂は周囲の木々がなく、視界がとても開けていた。
そこでふと、甘い香りがすることに気がつく。上品で洗練されたような、癒やしの花の香りだ。
「この香りは……」
「こっちだ」
先導する北条の後を莉世はついていく。歩くにつれ、どんどん香りは強くなる。
そして、ついにその花が視界に入った。
「すご……!」
目前には、月明かりに負けないほどに白く輝く花がたくさん咲いていた。花も莉世の顔ほどはある大きさで、強い香りを放っている。
「この花は『月下美人』と呼び、夜に咲く花なんだ。僕が育てていたんだ」北条は花に触れながら口にする。
「北条くんが?」
「あぁ。神隠しの噂で人も寄り付かなくなった場所だったからな。だから、あの猿が山頂に上がったと言った時は驚いた」
北条は懐かしむように語る。
「月下美人はこの時期の夜に数時間しか咲かない。だからどうしても莉世に見せたかった」
「ありがとう……本当、すごくきれいだよ……!」
莉世の顔には、自然な笑顔が戻った。
こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうか。強い花の香りに、目が眩みそうになる。
「莉世」
ふと名前を呼ばれ、北条に振り向く。
北条は狐面を頭から外し、居住まいを正していた。
「僕は、前世の記憶を所持している。紫翠の約束を守る為、そして紫翠の未練を果たす為、現世でこの運命を求めた。僕が桜鼠に編入したのも、全て燐音の生まれ変わりである君のそばにいたかったからだ」
北条は真剣な顔で言う。莉世も応えるように、背筋を伸ばす。
「未来はわからないものだ。何人もの人生を見てきた中で後悔を抱えたまま死んだ者もたくさんいた。紫翠も想いを告げる前に人生を終えてしまった。実際僕も、あの時死ぬはずだったんだ。笑っても良い。でも、生きている今だからこそ、伝えさせてほしい」
そう言うと、北条は莉世の前で跪く。シャリンと心地良い鈴の音が鳴った。
敬意の表れたその姿勢に莉世は胸がドクンと脈打つ。中学生とは思えないほどの佇まいだ。
「北条くん……?」
「莉世」
そう言うと、北条は顔を上げて何かを差し出した。
「僕は生まれ変わっても君を想う。だからこれから、ずっとそばにいてくれ」
差し出されたものは、指輪だった。小さいストーンのあしらわれた、見るからに高そうなシルバーのものだ。紛れもない、プロポーズだった。
莉世は、目を見開いたまま硬直する。
燐音の待ち望んだ約束。
大好きな人とずっと一緒にいる為の誓い。
前世で誰も果たせなかった未来が訪れていた。
力強く、真っ直ぐで、安心できる将来が来たんだ。
夢であるならば覚めてほしい。
あまりにも予想外だった。
予想していなかったからこそ、衝撃が強かった。
そして、感動も上回った。
――――こんな未来は、どうでしょう。
水月が、空から微笑んだ気がした。
莉世は、ボロボロ涙を流す。
そんな莉世に、北条は目を見開く。
「莉世……」
「嬉しい……嬉しいの……北条くん、ありがとう……」
莉世は何度も頷いた。北条の顔から緊張が解け、少年のような笑顔になる。その目には、薄っすら涙が浮かんでいた。
「僕のほうこそ、ありがとう……」
北条は莉世の頬に手を添え、涙を拭う。温かくて力強い北条の手に、莉世も手を重ねる。
ビー玉のように透き通った瞳、陶器のようにきめの細かい肌、痛みのない艶やかな黒髪、目を奪われるほど美しい顔の北条に見つめられているが、今は莉世も見つめ返せるほどの余裕があった。
「よかったら、つけてくれない?」
莉世は左手を差し出す。予想外だったのか、北条は、照れくさそうに顔を歪めると、不慣れた手付きで莉世に指輪をはめる。
左手薬指につけられた指輪を、月明かりにかざした。
雑貨屋で売っているものとは全く輝きが違い、目を奪われた。
「北条くんって、本当に中学生……?」
「人生、何度目かの中学生ではある」
北条は目を細めて答える。「今はまだ年齢的に本格的な物ではないが、その時が来たら必ず渡すから」
「いや、充分に高そうなんだけど……」
思わず本音が漏れる。
だが北条は、「これでも一応、白扇通っていたからな」と得意気に言った。
【6時間目:道徳】 完